大道珠貴「後ろ向きで歩こう」

mike-cat2005-07-27



最近やたらとハイペースで新作が刊行されているけど、
素敵」「傷口にはウォッカ」と、
どうにもいまいちの作品が続いたので、「たまたま・・・・・・」はスキップ。
今回は、表紙の装丁がけっこういい感じだったので、手に取ってみた。


読み終えての、率直な感想。
どの言葉を使って評価すればいいか、悩む作品だ。
二択の選択肢は「読む価値がない」か「読んで損した」のどちらか。
大道珠貴らしさは、それなりにあるのだが、はっきりいって質が悪い小説。
ある意味手慣れた感じのいつも通りの発想を、
そのままよく練りもせず、つなぎ合わせて小説にしただけ、と感じた。
想像するに、売れっ子作家になって、仕事が雑になったんじゃないだろか?
もしかしたら、ただ単に大道珠貴作品を読みすぎたせいかもしれないけど。


〝結婚しても、夫婦は他人。心の中では別のことを考えている。
 距離があるからこそ見えてくる、リアルだけれどユーモラスな男と女の物語〟
設定は、いかにも大道珠貴っぽい。
大道珠貴独特の、捨て鉢な脱力感を感じさせる描写も、確かにある。
たとえば、表題作の「後ろ向きで歩こう」は、
脱力系の主婦、小鳩さんと、ダメ夫、ダメ娘、天子の話。
小鳩さんのキャラクターを説明する一節だ。
〝小鳩さんにはいまいち、母親としてうえからものを言うという迫力に欠けていた。
 かといって、友達のような母子関係でもなかった。
 (クラスメートになったら、まず、声をかけないわね、人種が違う気がするもの)〟


これが、夫との離婚話となると、こうなる。
〝「きみは自由にするといいよ。僕が遊びに行くと、邪魔だろうから、
  二十年くらいは会いに行かないよ」
 「そうね、ありがとう。なるべく会うのは避けましょうね。
 偶然ばったり会うのは仕方ないから、そのときは、やあ、こんにちは、って言いましょう」
 「僕ら、はじめから、結婚なんてしなかったみたいだね」
 「でも、してたのは事実でしょ、テンちゃんまでいるんだし」
 「してよかった?」
 「もちろんですよ」
 「僕も」
 そんな会話をしたが、どちらも離婚届を役所に取りに行かなかった〟


まあ、大道珠貴の作中人物にありがちな、いつもの投げやりな人たちだ。
その脱力ぶり、そのものはまあ、悪くない。
だが、娘の天子との関わりになると、脱力というより、
単なる無気力、無責任、いいかげんが、垂れ流されているだけになる。
天子のキャラクターなんて、読んでいるだけでアタマにくる。
犬、タレント、バイク…何でも欲しがり、何でもすぐ飽きる。
外ではいじめられっ子、というかハブされてだけの、デブなおバカちゃん。
そのクセ、親に対して主張する時は、すさまじいほどの内弁慶ぶりを発揮する。
つまり、どこにでもいる、安いガキだ。
その安いガキにろくに反論できず、いいようにやり込められる親の小鳩さん。
そんなのをわざわざ小説にしてどうするの、という話になる。
そこらへんにうじゃうじゃいるでしょ。
何でそんなやつらの話を、わざわざおカネを出して、時間を使って読まないといけないのか。


この親子のアタマにくるとこは、それだけじゃない。
ハナマキと名付けられ、連れてこられた犬の末期がこれだ。
〝犬のハナマキは、毛がだんご状になっている。
 あまりに天子が世話をしないので、小鳩さんもほっといているのだった。
 ハナマキは自分がみすぼらしいのをちゃんと知っているらしく、
 「お恥ずかしいです」
 というように上目遣いをする。すごすご退散するみたいに見えて、わびしい〟
で、ちょっとすると癌で死ぬ。それも「ああ、死んだみたい」という感じでの描写。
ひとことで言うなら、「お前ら殺すぞ」という感じだろうか。
そういう感性の欠如を、小説として描くこと自体はは構わない。
僕は読みたくないけど、そういう小説は小説で、
感性の欠如に疑問符を投げかけたりするものであれば、意味はある。
しかし、ただ感性とか、想像力が欠如した、
アタマの悪い親子に〝殺された〟犬の話なんて、何で読まなきゃならんのだ。


「旬」に至っては、大道珠貴の弱点でもある、現代的センスの欠如があらわになる。
不思議な別居生活を送る、正樹と深雪のお話。
二人ででかけた温泉のホテルでの一幕だ。
〝翌日、正樹は朝食もとらず、早々と出かけていった。
 うすい毛をディップで逆立てて、「クラブに行くんだぜ」と言っていた。
 尻のすっぽり隠れるTシャツを来ていた。喝、という文字が入っていた。
 くるぶしの出る丈のだぶだぶなジーンズを穿いていた。
 血色がよくて、活きいきとしていた。〟
ディップって、いまつける人いるのか? というか売ってるのか?
たぶん、わざとハズそうとして書いているのだろうけど、何だかずれてる。


この深雪のキャラクターもどこか、前近代的な感じが否めない。
路上にて、前から来た女子高生が、
独り言をつぶやく深雪を薄気味悪そうに見る、舌打ちする。
〝あんただって道端でケータイに向かって
 ひとりでしゃべっとうちゃないとね? と深雪は思った。
 その女子高生の制服には見覚えがある。
 深雪が通っていた高校より偏差値が二ほど上の高校だ。〟
30にもなって、偏差値とかに縛られた柔軟性のない価値観といい、
携帯への敵意もわからないでもないけど、
〝もう、そういう時代じゃないでしょ〟感も否めない。


稼ぎの少ない正樹に対しての考え方も、
進歩的を装いつつ、実は前近代的な発想の裏返しでしかない。
深雪にカネを出させ、こそこそとする正樹に対して思うこと、だ。
〝次は堂々と女に金を出させる男がいいな、と深雪は思った。
 私は、稼ぐことに引け目を感じず、
 夫のために金をつかいたい、それは今までと変わりない。
 そしてそういうことをされても動じずどっしりとしているような男がいい。
 次の男とは、おたがいの自由を尊重したりしないで、辛抱強く、同じ住まいに暮らしたい。〟
別に、間違ってはいないが、その気張り方が、あまりにもおかしい。
つまるところ、女がカネを稼ぐことに対して、誰よりも抵抗を感じている証拠だ。
おたがいの自由を尊重したりしないで、というのも、
どんな自由を、どう尊重するか、という判断ができないことの裏返し。
つまり、人間として自立していない、単なるダメちゃんなのだ。
つまり、これもまた、どこにでもいるようなヒトの、どこにでもある話に過ぎないのだ。


確かに、これまでの大道珠貴作品でも、これに類する人物は登場していた。
確かに、こういうレベルの安いヒトたちが演じる、不思議なドラマに魅せられてきた。
だが、その人物設定、そのドラマのどちらをとっても、
ありふれていそうで、実はとてもよく練られ、味わい深いものだった、はずだ。
また、たとえばもっと若い主人公だったり、もっと歳を重ねた登場人物だったり、
ということで、同じようなドラマにも、また違った奥行きが出ていたこともある。
言えることは、投げやりにも投げやりなりのしっかりとした描写があったと思うし、
脱力系なら脱力系で、もう少しレベルの高い人物設定がなされていたハズなのだ。


この作品を読んで、ここ最近の何作かでずっと引っ掛かってきた
〝何か〟の正体が、わかった気がする。
思うに、もう書く中身がなくなったのに、作者本人はよくわかっていない。
一応売れるから、編集者も文句を言わない。だから、きちんと練り直して書くこともない。
だから、こういう何を言いたいんだか、よくわからない小説ができあがるのでは?


この作品が、単なるハズレ、ということであればいいけど、とも思う。
何といっても、いままで好きだった作家の一人。
しかし、この〝アタマにくる〟小説を読んでしまっては、怒りはおさめようがない。
駄作だけでは済まされない。加えて、イヤな作品といってもいい。
決別、とまではいかないかもしれないが、
たぶん、しばらく大道珠貴を読むことはないと思う。
とかいって、この作品がどこかで絶賛されたりするかもしれないけど、別にそれでも構わない。
とりあえず、僕にとって許せない作品であることに、変わりはないから。