奥田英朗「サウス・バウンド」

mike-cat2005-07-06



直木賞受賞第1作。
そういえば「空中ブランコ」以降、小説は出ていなかったっけ。
そうか、そうか、長編は2年ぶりになるのか。
文体的には、その「真夜中のマーチ」に通じる、コメディタッチだ。
マイベストは「邪魔(上) (講談社文庫)」「邪魔(下) (講談社文庫)」「最悪 (講談社文庫)」なんだけどな、
と、勝手に考えつつ、読み進める。


主人公は小学六年生の二郎。中野に住むごくふつうの小学生だ。
しかし、二郎には秘密がありました。何と、お父さんは元過激派だったのです。
って、「奥さまは魔女」風に書いたが、実は全然秘密じゃない。
父の名前は一郎。職業〝フリーライター〟。処女作執筆中(by椎名桜子)。
大の字が何十回とつくぐらいの役人嫌い。
いわく「おれは官が虫より嫌いなんだ」。
「やつらはな、もっとも性質の悪い搾取する側なんだ」。
これを小学生の息子にも、きっちりと表明する。
筋金入りの、アナーキスト無政府主義者)なのだ。


といっても、第一部での父は、正直やっかいものだ。
むろん、スジの通った主張だが、
担任の先生にかみつき、学校にかみつき、二郎を厄介な立場に立たせる。
むろん、諸悪の根元は、学校の側にある。
しかし、誰もが見て見ぬふりをする、もしくは気付こうとしない、
そんな矛盾に対して、きちんとものをいうのは一郎だけだ。
だから、正義は一郎にあっても、二郎は困り果てる、という構図だ。
ここで、せめて子どもに対しては、
バランスを保った立場を取れる大人がいればいいのだが、それもいない。


子ども同士のトラブルも発生するが、大人は何にも役に立たない。
ここでは、一郎とて傍観者を決め込む。もっとも、これは信念に基づくのだが。
だから、二郎は自分たちでその問題に立ち向かっていく。
最初はしかたなく、しかし、段々とみずからの意志を持って。
そんな中で、父をめぐるトラブルが、ヒートアップしていく。そして…


そんなわけで、父が第一部の後半から、物語を大きく展開させていくのだが、
この一郎が、非常に魅力的なキャラクターに仕上がっている。
冒頭、区役所から年金の督促係が訪れる。
老後の蓄えは? と訊けば「自己責任でいい」。
路頭に迷ったら、結局は国が救うでしょ?
「なんという傲慢。いったい誰が頼んだ、救ってくれなどと」
人道というものが国の求心力なんです!
「のたれ死ぬ自由も奪おうというのか、国は」
公園の死体は誰が片付けるんですか?
「死体などカラスがついばめばいい」
それでも、年金納付は国民の義務なんです! 「じゃあ国民やめた」
こんな感じ。納得のいかないことには、徹底的に論じつめる。
現実に目の前にいると、やや微妙かもしれないが、
その志、そしてその実行力には、単なる好感以上のものを感じさせる。


〝過激派〟という言葉には、正直嫌悪感を覚える。
だが、あくまで〝元〟だ。
どうも、とんでもない前歴をお持ちの父、一郎だが、いまは群れていない。
運動の本来の目的を忘れ、運動のための運動に終始し、内ゲバに明け暮れる、
そんな運動家たちに愛想を尽かし、
徒党を組まず、単独で闘うことにみずからの信念をかける。
でも、かなりユーモアはあるし、別に単に暑苦しいオトコじゃない。
こどもの教育に関しても独特ではあるが、スジは通っている。
ま、子供にしたら、理解するまでに、だいぶ時間を必要とするだろうが。


紆余曲折を経て、西表島に舞台を移した第二部でのキメセリフがシビれる。
「二郎。世の中にはな、最後まで抵抗することで徐々に変わっていくことがあるんだ。
 奴隷制度や公民権運動がそうだ。
 平等は心やさしい権力者が与えたものではない。人民が戦って勝ち得たものだ。
 誰かが戦わない限り、社会は変わらない。おとうさんはその一人だ。わかるな」
第一部から二郎が接してきた、
逃げる大人、見て見ぬふりを決め込む大人に対する強烈なアンチテーゼだ。
このカタルシス。たまらない。


それでも、一郎は微妙なバランス感覚は失わない。
きちんと、こう付け加える。
「二郎。前にも言ったが、おとうさんを見習うな。おとうさんは少し極端だからな。
 けれど卑怯な大人にだけはなるな。立場で生きるような大人にはなるな」。
「これは違うと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。
 人とちがっていてもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる」
それを見守る母の言葉もシビれる。
「唯一常識から外れたことがあるとしたら、世間と合わせなかったってことだけでしょう」
「世間なんて小さいの。世間は歴史も作らないし、人も救わない。
 正義でもないし、基準でもない。世間なんて戦わない人を慰めるだけのものなのよ」


第一部で、破天荒な父に翻弄されながらも、問題に向かって立ち上がり、戦った二郎が、
第二部では、信念のため、戦う父の姿を見守り、モノを考える人間に変わっていく。
そこにはもう、困った父と、どうしていいのかわからない息子の姿はない。
二郎自身も、意志・感情を整理しきれない子どもから、
(年齢的にはともかく)自らの意志を持ち、どう生きていくかを考える青年に成長する。
どこかユーモラスな描写を保ちつつ、一本スジの通った物語。
そして好感は持てても、読者が引いてしまう可能性も兼ね備える、
扱いにくいキャラクターである一郎を前面に押し出し、
なおかつ劇的な展開と、素直な感動をもたらしてくれる。
なるほど、奥田英朗らしい傑作。待たされた甲斐があったというものだ。


読み終えると、ジーンとしびれたような感覚が、頭に残る。
そして、何となくいまの自分について、考えてみたりもする。
〝搾取〟だとか〝プロレタリア〟はともかく、
逃げたりしてないか、こずるく立ち回ったりしてないか。
〝根っからのアナーキスト〟(中学生時代…)と評された、
あの頃の自分は、いまどこにいってしまったのか。
モノは言ってるけど、何も行動は起こしていない。むむむむ…
でも、昔よく、「ヤクザ映画を観た観客は、やけに肩に力を入れて劇場から出てくる」
と言ったモノだが、それにもどこか通じるような感触はある。
日が経てばくじけること請け合いなのだが、この傑作を読んだいまは、
きちんとモノを言い、きちんと行動する人間になれそうな気がする。


まず、いますべき行動は、
目の前でゲロゲロやってるネコさんの、お口からお出まししたものの始末。
よし、行動したぞ。
「ゲロしないよう、食べ過ぎるんじゃないよ」。
よし、言うべきことも言ったぞ。
返事は「にゃあ」だそうだ。そうか、そんなん知らん、か。
ううむ、もうくじけたような気がする。
ホント、お粗末な限り。あーあ、人間って、つくづく弱いものなのね。