町田康「告白」
思わせぶりな、白っぽい表紙。オビは
「人はなぜ人を殺すのか
河内音頭のスタンダードナンバー<河内十人斬り>をモチーフに、
町田康が永遠のテーマに迫る渾身の長編小説!」
なるほど、ぐぐぐっと迫ってくる。
迫ってくるけど、このオビの謳い文句は、
この本の本質をうまくアピールできてないだろう。
そりゃ、〝町田康〟というキーワードだけでピンとくるヒトはともかく、
そうじゃないヒトは、ふつうにまじめな本だと思うじゃん。じゃん、じゃないけど。
ちなみに、僕自身も「浄土」読むまではそう思ってた。
何か、深遠なテーマを重厚に描いた作品か、と。
違う。
ひとりの連続殺人犯の心理・思考をこども時代のころからその時に至るまで、
そのアホぶりも含めて詳細に、そして滑稽に描ききった作品だ。
深遠なテーマも内包するが、大上段に構えた作品じゃない。
〝十人斬り〟の主犯格、城戸熊太郎というオトコの、
膨大な思考の流れをいい意味でだらだらと描ききっているが、
そこにあるのは、重厚さではなく、圧倒的なまでに滑稽なリアル感だ。
前置きが長くなるとアレなので、あらましをちゃんと書く。
まず〝河内十人切り〟について。
「私立PDD図書館」(THE PRIVATE PUBLIC DOMAIN DATA LIBRARY)によると
【河内十人斬り】
○[楽]河内音頭に歌われた、1893. 5.25(明治26)南河内赤坂村
で起きた事件。また、その音頭。
女性関係のもつれから、遊び人城戸熊太郎とその弟分谷弥五
郎の二青年が、村田銃と日本刀・仕込み杖を手に愛人の家を襲
い、生後一ヶ月の乳児や三歳・五歳の幼児を含む10人を惨殺し、
金剛山の奥深く姿を隠す悲劇。
熊太郎が無念を晴らしたということや、弥五郎が兄弟分に殉
じたとして英雄視されたもの。
参照⇒かわちおんど(河内音頭)
殺人事件の事実だけを並べると、まことに凄惨な事件だ。
何しろ、乳幼児まで殺してる。何があろうと、許されない。
許されないはずだが、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」よろしく、
ふたりは英雄視され、河内音頭のスタンダードとして、後世に言い伝えられる。
なぜか?
ここらへんは、本文内にも描かれるが、
まずは当時の〝人間の値段の安さ〟がある。
食べ物もない。衛生状態も悪い。モラルも低い。
そこで、ヒトは簡単に死んでいくのだ。
死生観は非常にシビアで、そこには中途半端なナイーブさはない。
だから、乳幼児殺しには憤りを覚えつつ、さほど騒がない。
むしろ、積年の恨み(大怨と違うよ。念のため)を晴らした熊太郎に対し、
世の中に不満を覚える自分を投影し、喝采を浴びせる。
それにしたって…と思うのも人情だが、この恨みというのがくせ者だ。
殺された松永熊次郎というオトコ。これがイヤなオトコだ。
誤解を恐れずにいえば〝殺されて当然〟レベル。
だから、この熊次郎が殺される場面は、まさにカタルシスの瞬間だ。
その瞬間を引用すると、単なるネタバレなので、
作中、この「十人斬り」が河内音頭で演じられる場面を引用する。
〝音頭取りがひときわ力をこめて台詞を詠んだ。
「斬り刻んでも飽きたらんちゅうのはおまえのこっちゃ。こなしてくれるわ、エイッ」
直後、ひときわ演奏が高まり、群集の熱狂は極点に達した。〟
人を嘲り、人を欺き、人からだまし取り、人を利用し、人を陥れ…
この小説も、この熊次郎(それにしても、ややこしいが兄弟ではない)あってこそ、
エンタテイメントの体をなしている、といっても過言ではないだろう。
「そりゃ、熊太郎だって怒るよ」という、共感あってこそ、
このとんでもない「事件」が、単なる凄惨な事件で終わらないところだろう。
かといって、それだけでこの小説を語れるか、というと全然違う。
最初に書いた通り、熊太郎の蛇行し続けるような思考の流れこそが、この小説のミソだ。
この熊太郎。こどものころから中途半端に頭が回転する。
本人いわく、思弁的。
三省堂の大辞林によると「経験によらず、思考や論理にのみ基づいているさま」
単なるバカとちゃうのや、というトコか。
ある意味、聡明ですらあるかもしれない。
だが、時まさに明治を迎えようという時代の、河内の寒村では、何の役にも立たない。
周囲の人間といえば〝思考すなわち言葉であり、
考えたことが即座に言葉となって口からだだ漏れ〟るヒトたちばかりだし、
〝その言葉たるやなにかと直截で端的な河内の百姓言葉〟の世界なのだ。
これでまた熊太郎に、従順さとか、適応性とかいうものがあれば、
自然とそういう世界にも順応していくのだろうが、これに欠けていた。
だから、自然と世界は閉ざされていくし、熊太郎の内面世界は思弁的に特化されていく。
当然、社会との適応の中で学習していくはずのスキルは磨かれていかない。
〝変わり者〟としてスポイルされ、孤立していく。
町田康みたく、カッコよく書いてみてしまうと、負のスパイラルに陥ってしまうのだ。
これでまた熊太郎に、こらえ性とか、勤勉さがあれば、
どこかの分野で優れた業績とかを残したかもしれないが、これにも欠けていた。
当然、ロクデナシとして、飲む、打つ、買うの三冠王。
で、頭は決して悪くないから、巧妙に自分をごまかし、正当化し、かつ罪悪感に駆られる。
好き勝手やってるのだから、ハッピーに生きればいいものを、
勝手に居心地の悪さを味わって、憂鬱感に浸ってみたりするのだ。
こう書いていて思ったのだが、まことに複雑な人物だ。
かといって、賢くないのがまた凄いところなんだけど。
で、この〝複雑な人物〟が、〝殺されて当然のオトコ〟を殺すにあたり、
なぜそうなったのか、という経緯が語られているわけだが、
それが町田康一流の、絶妙にトボけたタッチで語られているのだ。
いや、熊太郎そのものの滑稽さもさながら、この語り口がたまらない。
書き出しからして、ヘンだもの。
〝安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した
熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、
明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、
完全な無頼者と成り果てていた。
父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
あかんではないか。〟
いや、〝あかんではないか〟って、急にいわれても…、と思わずほくそ笑む。
もう、ここで町田康の世界に引きずり込まれる。
あとは、独特のパンクな文体に溺れていく。
まだ〝町田康ビギナー〟の僕だが、この味わいは、もう体に染みついている。
気づけば、熊太郎の思考が、ひたひたとこちらの思考領域を侵す。
気分はちょっと熊太郎、という感じの微妙なシンクロとともに、
そして〝あかんではないか…〟という第三者的な視点も守りつつ、
この極上の小説を味わったのだった。
そういえば、この前「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」
という映画を観たばかりだったが、あれとは似て非なるものかな、という感じ。
社会からの疎外感、ソーシャルスキルの低さ、どこか否定しきれない〝微妙な正当性〟…
共通項はやたらとあるんだが、何だか違う気がする。
もちろん、町田康の〝お笑い〟的センスもあろうが、それだけじゃない。
個人的不遇に対する〝私憤〟を、社会的〝義憤〟とすり替えた
「リチャード・ニクソン〜」の犯人、サム・ビック=ショーン・ペンと違い、
あくまでまとまらない思考の波に追いつこうと、
最後の最後ではある意味、自分を欺くことなく〝忠実に〟あがいてみせた熊太郎の違いだろうか。
うまく考えがまとまらない。
こんなトコも、熊太郎にシンクロしたせいだろうか。
いや、違う。
考えがまとまらないのは、いつものことだった。残念…って、波田陽区かい?←お粗末。