ミネット・ウォルターズ「昏(くら)い部屋 (創元推理文庫)」

mike-cat2005-05-29



ウォルターズといえば、
女彫刻家 (創元推理文庫)」などでもおなじみの〝油断ならない〟作家だ。
何が油断ならないって、もちろん意表を突くラスト、もしくはどんでん返しが一番だ。
なんだが、文章をそのまんま素直に読んでいてはいけない、
という油断ならなさ、も内包していたりする。
この作家、どうにも描写がねちっこくって、読んでいて流してしまいたくなるのだが、
その端々に、ワナをしかけている。
そのワナを見逃すと、のちのちのどんでん返しとか、驚愕のラストがワケわかんなくなったりする。
だから、グググと顔を近づけるようにして、活字を追う。
そうすると、何だか全体の流れがわかんなくなったりして、また困る。
そんなわけで、なかなか難物だったりもするのだが、
たいていその労には応えてくれる、コストパフォーマンスはけっこういい作家でもある。


だが、そんな感じで600ページ読むのは、かなりの作業。
ここ数日、はるばる泉佐野の向こうまで行く用事があったりしたのだが、
南海電車の中で惰眠をむさぼってしまったため、読むのにけっこう苦労した。
その上、なのだ。
前述の通り、油断のならない作家が今回書いたのは
〝信用ならない語り手〟による物語だ。もう、苦戦は必然だったりもした。
信用ならない語り手、つまりパトリック・マグラアスパイダー (ハヤカワepi文庫)」同様、
自分の記憶がおぼろげなヒトを、主人公をおいた小説だ。


主人公はジンクスことジェイン・アダムズ。
病院で目覚めたジンクスは、ここ10日分の記憶をすっかり失っていた。
医師からは、自身が2度にわたる自殺を試みた、と告げられる。
原因は、親友に婚約者を寝取られたこと、だという。
しかし、どこかふに落ちないジンクス。
親友と婚約者は姿を消し、ジンクスのもとには怪しい訪問者。
事件は解決に向かうどころか、
ジンクスの過去、そして家族にまつわるナゾも浮上し、混迷の一途をたどる。


とにかく、このジンクスの記憶喪失というのがくせ者だ。
全然覚えていないならともかく、何となく、何かを〝知っている〟のだ。
たとえば、婚約者たちと連絡が取れない。どこへ消えたのか。
しかし、ジンクスの頭をよぎるのは、こんな思い。
〝連絡が取れない。わたしはそのことを、すでに知っている。なぜなのだろう〟
落ち着かない思いで、ジンクスは唇をなめる。
いや、落ち着かないのは、読んでいるこっちの方だ…
いきなり、もうジンクスを信用できなくなる。
あとは疑心暗鬼に駆られ、作者の思い通り、
さまざまな可能性に思考をめぐらせることになるのだ。
それに追い討ちをかける、ジンクスのひと言もある。
〝わたしはしょっちゅう嘘をついている……嘘をつくのはわたしの第二の天性だ〟


一つ間違えば、作者のご都合主義を優先した物言いにもなりかねないが、
ウォルターズ一流の、正確で、ねちっこく、
それでいて微妙にフェアな騙しのテクニックが、そのぎりぎりの一線を守る。
だから、その後の展開も、何でもあり得る、とのこころの準備はできる。
で、うまい感じに騙され、裏切られ、意表を突かれても「やられた」と喝采できるのだ。
いや、上級ミステリファンはともかく、僕程度のレベルの読者は、かもしれないが。


そして、今回のウォルターズの裏切り、はなかなかすごい。
何がすごいか、細かく書くとネタバレになるから書けないが、
ジンクスのあいまいな記憶喪失同様、
どこまでいってもナゾはあいまいなままなのだ。
読み込めば読み込むほど、可能性は広がっていくばかり。
懇切丁寧な、「これが秘密だったのだ」的な種明かしはないまま、
読者をナゾの沼に沈めていく。
じゃあ、釈然としないか、というとそうでもない。
何となく納得はするのだけど、何となくうすら寒さが残る。
とても微妙な余韻を残して、物語は幕を閉じるのだ。


「何じゃ、こりゃ」的な感想を覚えてもおかしくない、
その自由度の高さをどう評価するか、というのは議論の分かれるところかもしれないが、
少なくとも、このクオリティで描かれている以上、これもアリかな、という感じだ。
ある登場人物の扱いは、なかなか凝っているし、
時系列を微妙に入り組ませた感じの構成も、面白い。
さすが、ミネット・ウォルターズ、と唸らせるだけのものはあったと思う。
もちろん、読むのに体力はいるので、その重厚さに耐えうるか、は微妙。
時に、眠りを誘うのに最適な本だったことも、確かだ。
これからお読みになる方にはこう申し上げたい。

元気な時、そして時間がある時に読んで下さい。そうでないと…