古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」

mike-cat2005-05-23



牙を剥き出しにした、黒い犬の表紙カバー、オビには
〝二十世紀をまるごと描いた、古川日出男による超・世界クロニクル
 四頭のイヌから始まる「戦争の世紀」〟とある。
これだけでは、まるで何だかわからない小説。
実際、読んでみても、どう説明しようか、まことに悩む。
まあ、オビの通りといえばそうなんだが、
あくまでイヌの視点から見た二十世紀(おもに後半)という点が、
小説に、独特な味わいをもたらしている。
非常に、オリジナリティあふれる不思議な小説といえるだろう。


始まりは、二次大戦下のアリューシャン列島だ。
ミッドウェー攻略から目をそらせるための、日本軍による列島占領。そして、撤退。
取り残されたのは、4匹の軍用犬だ。
北海道犬(旧称=アイヌ犬)の「北」、ジャーマン・シェパードの「正勇」と「勝」、
同じくシェパードで元は米軍の捕虜犬「エクスプロージョン」。
米軍の再上陸後、最後まで大日本帝国の軍犬として〝玉砕〟した「勝」をのぞく3匹、
そして、「正勇」と「エクスプロージョン」の間に産まれた子犬たちは、米軍に取り込まれる。
東西冷戦、朝鮮戦争ベトナム戦争アフガニスタン内戦…
彼ら、彼女らの子孫たちが米ソや中国、朝鮮半島の南北で分断され、
環太平洋地域、中央アジアに散る。そして、また世代を越えて邂逅する。
その数奇な運命をたどった、壮大なクロニクルだ。


アリューシャン列島に取り残されるあたりは、
南極犬「タロ」と「ジロ」みたいなんだが、あの甘い感傷に満ちた物語とはまったく違う。
ちなみにあの「南極物語」。藤子・F・不二雄の短編集で、
南極に取り残されたイヌたち、そして南極のアザラシたちの視点から描いた作品があった。
「タロ」と「ジロ」による極寒の大地での
残虐非道な行い(イヌにしたら当たり前だが…)を描いていて、えらく面白い。
全集のどの巻に収録されているかは忘れたが、
ほかの短編も非常に面白いので、未読の方はぜひ。
ドラえもん」「オバケのQ太郎」だけが、藤子不二雄の世界と思ったら、大違いだ。
大人の鑑賞に耐えうる、どころか、SF界の巨人・星新一にも通じる、独特の〝凄み〟がある。


で、話を元に戻す。
ストーリーにはもう一つの軸があって、そちらには、
二十世紀末のシベリア、そしてロシアに生きる〝大司教〟と呼ばれる男が登場する。
明らかに、裏稼業をにおわせるこの男のイコンは、焼け焦げたイヌの頭蓋骨。
その頭蓋骨の正体は、おいおい明らかになるのだが、
チェチェン・マフィアから日本のヤクザまで巻き込んだ、仁義なき闘争が描かれる。
そして、その男によって、囚われの身になった少女。
これが美少女じゃなかったりするところが、いかにもこの小説っぽい。
このもう一つの軸は、当然の帰結として、
「北」たちの末裔がたどるストーリーと、どこかで交錯するのだが、それは読んでのお楽しみ。
まあ、そんなわけで、とにかく壮大な年代記が展開していくのだ。


何せイヌなんで、世代が移ろうのはムチャクチャ早い。
実際、語られるのは20世紀の後半だけなんだが、イヌはとにかくたくさん出てくる。
「シュメール」「犬神(アヌビス)」「ギター」「アイス」「ジュビリー」…
どのイヌが、どのイヌの子供で、環太平洋のどこに行ったのか。
記憶力、それも短期記憶すらスカスカな僕としては、
翻訳物ミステリーでよくある登場人物の紹介よろしく、
「登場犬の血統図」があるとモアベターだったのだが、それは残念ながらなし。
でも、一応毎回ある程度の説明はあるし、もとをたどれば4匹(というか3匹)なんで、
あんまり正確に記憶してなくても、不思議な邂逅への感慨には十分浸れる。
もちろん、正確に記憶していれば、感慨もひとしおだろうから、
お好きな方は図を作りながら読んだら、とても楽しいと思う。
もし、作った方がいたら、どこかのサイトにアップしてくれたら最高にうれしい。
というか、自分で作れよ、という話なんだが…


で、ここまで書いていて気づいたが、
「ワンちゃん、大好き♪ きゃー♪」みたいなノリで読み始めると、後悔するのでご用心。
ご用心って、まあパッと見ただけである程度承知だろうとは思うけど、
内容は、けっこう強烈な、セックス&バイオレンスの世界だ。
軍用犬による、戦争の世紀のクロニクルだから、考えてみれば当たり前なんだが、
「性交」のルビが「お×ん×」だったりして、けっこう激しい。
極限の状況になれば、共喰いだってしちゃうし、
戦争になれば機銃掃射で一網打尽にされることもある。
映画だったら、イヌ・ネコが死んだり、殺されたり、の描写があるだけで、
NGにする僕としては(名作「アモーレス・ペロス」は数少ない例外)、けっこうドギマギする。


それでいて、「戦争の世紀」に翻弄される犠牲者たち、という印象はほとんどない。
この小説が語りたい部分は、むしろ別にあるのだろう。
数奇な運命に翻弄されつつも、
ある時は力強く、ある時は巧妙に、その〝血〟を受け継いでいく姿は、グッと胸に迫る。
涙を誘う感動、というのではなく、心臓の中心部までガツンと響いてくる、一種の衝撃だ。
その衝撃に、序盤から圧倒されっぱなしで、イヌたちのドラマは突き進められていく。
あっという間の344ページ。読み応えも十分。
異色作であることに異論はないが、ある意味、王道のエンタテイメントでもある。
実は、古川日出男って、名前だけは知ってたけど、〝お初〟の作家。
だが、さっそくこれから過去の作品を総ざらいしたくなった。
まずは「アラビアの夜の種族 (文芸シリーズ)」が、基本なんだろうか。
ちょっと検討してみることにする。ああ、楽しみ♪ また、世界が広がった。