ネルソン・デミル「ニューヨーク大聖堂(上) (講談社文庫)」「ニューヨーク大聖堂(下) (講談社文庫)」

オビは間違い?



上下巻合わせて約1100ページ…、ようやく読み終えた。
24年前に書かれた、ネルソン・デミル初期の作品だ。


よって、舞台は80年代のニューヨーク。
まだ、アルカイダによるWTC崩落テロは起こっていない時代の作品だ。
だが、その後の事件を彷彿とさせるようなプロットが、この小説には使われている。
IRAの分派「フィアナ騎士団」を名乗るテロリストが、
聖パトリック・デーでにぎわう、
マンハッタンの聖パトリック大聖堂に人質を取って引き籠もった。
人質は、元IRAの運動家、イギリス総領事、そして枢機卿
要求は、イギリス、アイルランド両国に収監された政治犯の釈放。
翌日の夜明けまでに同志を解放しなければ、大聖堂を爆破する、と宣言した。


主人公はニューヨーク市警情報部の警部補、パトリック・バークと、
元IRAの闘士で、平和運動に〝寝返った〟モーリーン・マローン。
モーリーンは、テロリスト・グループのリーダー、ブライアン・フリンの元恋人でもある。
そして、アイルランドの不遇の歴史を背負ったテロリスト、フリン、
本まで出版している、スター〝人質交渉人〟のバート・シュレーダー
テロ勃発の中、暗躍するイギリス情報部のマーティン少佐…
マンハッタンの街並みが、緑色に染まる聖パトリック・デーの大混乱の中、
ニューヨーク州知事やニューヨーク市長、市警にFBI、CIAまで絡み合う、
複雑な事態の中、刻一刻と夜明けの最終期限は近づいていく…


という、まことに壮大なストーリーが展開する。
デミルらしいといえば、デミルらしいんだろうか。
デミルの政治テロものといえば「王者のゲーム(上) (講談社文庫)」「王者のゲーム(下) (講談社文庫)」が面白かったが、
プラムアイランド 上 (文春文庫 テ 6-12)」「プラムアイランド 下 (文春文庫 テ 6-13)」でもおなじみ、
刑事ジョン・コーリーの減らず口が、
小説にスパイスを加えていた「王者のゲーム」と比べると、
「ニューヨーク大聖堂」はやや硬質な印象が強い。
もちろん、デミルという作家の成長とかもあるんだろうが、
アイルランドの歴史という、米国人でもそれなりに共有できる〝哀しさ〟が、
小説が硬質に描かれている理由の一因があるのかもしれない。


小説の冒頭は、ノーベル平和賞を受賞した運動家、ベティ・ウィリアムズの言葉だ。
北アイルランドのことをかなり学んだいま、わたしにいえることがいくつかある。
 まずここが、不健全で忌まわしい土地だということ。
 なぜなら住民たちはまだ年端もいかぬ子どものころから、死ぬ方法を学びはじめるからだ。
 ここは、おのれの歴史や文化が、形を変えた暴力にほかならない、
 という事実をわたしたちに忘れさせない土地でもある」
大英帝国に、プロテスタントに蹂躙され続けた、不遇の歴史が、いきなりつきつけられる。


そして、こうした描写は、その後も続く。
血に飢えた女テロリスト、メガンについて、尋ねられたフリンがこう答える。
「あの若者たちが知っているのは戦争だけだ−
 メガンもまた、子ども時分から戦争しか知らずに育ったしな。
 あの若者たちは、昔のベルファストダウンタウン
 どんな街並みだったかも知らないんだ。
 だから、責めるわけにはいかないよ。理解してやらなくては」
そして、フリンは続けて、アイルランド人を語る上で、
過去の蹂躙の歴史は、決して欠かすことができない理由も説明する。
アイルランド人にいわせれば、
 クロムウェルによる大虐殺はつい先週の出来ごとだし、
 十九世紀の大飢饉はきのうの出来ごと、
 復活祭蜂起とそれにつづく内戦は、きょうの午前中の事件になる。」
〝末代まで祟ってやる〟じゃないが、忘れ得ぬ恨みとして、
常にアイルランド人の血を、熱くたぎらせるのである。


IRAといっても、日本人には比較的、なじみのない組織ではある。
僕なんか、もっぱら浦沢直樹の「MASTERキートン」と「パイナップル・アーミー」
で得た知識が、その大半(というか全部?)といってもいい。
(そういえば、「MASTERキートン」絶版!という記事、週刊文春で見たな…)
だけど、そのおかげもあって、
単なるテロリストだの、過激派だの、という偏見はない。
もちろん、この小説で描かれるテロリストたちは、
越えてはならない一線を越えてしまってはいるんだが、
じゃあ、その一線を先に越えたのは誰か、というとやはりイギリス政府であったりする。
アルスター警察の横暴(とかいうレベルじゃないひどさらしいが)、圧政に、
子どものころから、苦しめられ続けた人たちが、どう生きていくのか。
テロを容認する、とは言いたくないが、赤の他人が「テロはいけない」みたいに、
お手軽に正義の御旗を掲げてみせるのは、あまりにお粗末な話だ。


だが、世の中、そうした不幸の歴史を、
〝知識以上に〟知ろうとしない人間は確実に存在する。
そんな人たちの、無理解もまた、北アイルランドカトリック教徒を必要以上に苦しめる。
モーリーンとイギリス総領事、ハロルド・バクスターの口論を見かねた政府関係者が、
モーリーンに、〝公平精神〟に訴えかける解決を促される。
だが〝この穏やかな反論の言葉をきかされても、モーリーンは無言だった。
 この世界に住む善人を相手にするのは、この世界の悪人を相手にするのとは、
 比較にならないほど厄介で骨の折れる仕事だ。〟
これもまた、物語に独特の味わいを加える要素になっていたりする。


聖パトリック・デーの喧噪も、小説を彩る重要な要素だ。
ニューヨークにはこんな言葉もあるという。
聖パトリックの日にはだれもがアイルランド人〟
通りいっぱいに広がった緑色。そして、信じられないほどの人出。
僕はこの日にニューヨークを訪れたことはないけど、映像で見る限り、とにかくすごい。
一度出っくわした、プエルトリカンのパレードだって、かなりとんでもなかったから、
実際の聖パトリック・デーの様子といったら、想像を絶するものなんだろう。
そんなアイルランドの聖人、聖パトリックにちなんだ祝日に、
カトリックの大聖堂の破壊を宣言する、という設定も、なかなか奇抜にして絶妙だ。


まあ、そんなこんなで(まとめられなくなると、すぐこれを使う)、
さまざまな要素が詰め込まれまくっているので、読んでいるとなかなかヘビィ…
これも前述した通り、かなり硬質に描かれているので、
売れっ子翻訳家、白石朗氏の訳で読んでいても、とにかく詰まる。
面白くない、とはいわないが、正直〝ページをめくる手〟は止まりがち、だ。
個人的に、率直にいうと、
傑作ぞろいのネルソン・デミルの作品群では、最下位に位置付けたい。
もちろん、並の作家なら十分及第点なんだが、デミルにしては切れ味もだいぶ悪い。
この作品でデミルを初めて読む人に、くれぐれもこれで評価して欲しくない。
面白くなる要素はたっぷりあるのに、ホント残念だ。
なるほど、これまで未訳だった理由も、わからなくはない。
もし間違ってこの作品から読み出した人には、
ゴールドコースト」でも「将軍の娘」でも「誓約」でも「プラムアイランド」でも、
何でもいいから読んで欲しい。それが、ファンとしての切なる願いだ。