茶屋町、テアトル梅田で「バッド・エデュケーション」

mike-cat2005-05-19



ペドロ・アルモドバル監督、ガエル・ガルシア・ベルナル主演。
これ以外は、予備知識まったくのゼロで臨む。
しかし、ポスターに散りばめられた紅い薔薇。
もしや…と思ったら案の定だった。めくるめく暖色、じゃなくて男色の世界。
ゲイの否定をする気はまったくないんだが、
めくるめく世界を目撃するのはあまり…
ひたすら繰り出されるオトコの尻、オトコの陰毛、オトコの裸…
図らずも観客ひとりの貸し切りとなった映画館で観るには、
まことに微妙な思いが、残ってしまったのだった。
まあ、見知らぬ他人とふたりっきり、よりはいいんで、文句をいっちゃいけないんだが。


で、映画を観て一番に思ったこと。
女装したガエル・ガルシア・ベルナルは、ジュリア・ロバーツに似てる。
ファンの人ごめんなさい。でも、鼻とか、目とか、どう見ても同じ。
もう、ジュリア・ロバーツを観て欲情することは、生涯なさそうだ。
って、別にいままで欲情したことがあったわけでもないんだが…


もう1点。
別にストーリー上は秘密でも何でもないから書いちゃうけど、
神学校の神父さまが、生徒のこどもに手を出してしまう設定について。
この神父さま、いわゆるゲイでもあるんだけど、
このゲイである、というのと、少年性愛というのは、実際どう因果関係があるのだろうか。
このふたつの性的嗜好を、一緒くたにして描くのは、
だいぶ乱暴な気がするのだが、どうだ。って誰に訊いてるんだ。
(と、故ナンシー関風に書いてみた)。
意外にそういう設定って多いけど、その論理でいけば、
ヘテロのオトコだって、少女と見ればいてもたってもいられず…、になる。
記憶が確かじゃないが、アルモドバルだってゲイ? じゃなかったのか。
何でこういう描き方をするのだろう、と不思議でならない。


以上、余談を終えたところで、本題に戻る。
お話は、サスペンス風だ。
オープニングはかつてのヒチコックを思わせる、レトロな味わい。
これだけで、グーッと物語世界に引き込まれる。これだけでも、なかなか、だ。
でストーリー。
スランプに悩む青年監督エンリケのもとを、かつての同級生イグナシオが訪れる。
売れない役者でもある、イグナシオが差し出したのは、
かつての自分たちの少年時代の出来事を題材にしたサスペンス映画の脚本。
ふたりの淡い(微妙だが…)恋と、神学校の神父との忌まわしい記憶。
虚々実々が入り交じる脚本がもたらす、新たな謎に、エンリケは引きずり込まれていく。


サスペンスのカラクリ的には、別にそう大仕掛けがあるわけではない。
むしろ、単純すぎて、拍子抜けするほどだ。
だが、アルモドバル一流の、ねちっこい描写が、そのサスペンスにきわどい彩りを添える。
フェレ・マルチネス(「テシス/次に私が殺される」「オープン・ユア・アイズ」)と、
ガエル・ガルシア・ベルナルのカラミも、もうこってりコテコテ…。
もう、胃もたれしそうなほど、濃厚な味わいだ。
アルモドバルに言わせると、まあいろいろなテーマを描いているらしいが、
もう濃ゆすぎて、僕にはよくわからない。
ただ、濃厚ではあるけど、悪くない味の映画だ。


ある意味、(オトコの裸は別にして)もっと観たくなる、クセになる味。
トーク・トゥ・ハー」のような、
ふつうの監督にとっての正統派(それでも変わってるけど)ではなく、
「神経衰弱ぎりぎりの女たち」みたいな、
アルモドバル監督にとっての正統派の映画ではあるんだろう。
微妙な言い回しにはなるが、
傑作という評価はしたくないが、忘れられない映画、ではあると思う。
もちろん、このテイストがお好きな方には、たまらないのだろうけど。


そうそう、本筋とはまったく関係ないが、
トーク・トゥ・ハー」の変態ストーカー看護師(簡潔に説明するとどうしてもこうなる)、ハビエル・カマラに、
眠り続けるバレリーナレオノール・ワトリングも出演してる。
これはこれで、あの映画のファンとしては、うれしいサービス? だったりする。
特に、カマラのオカマちゃんっぷりは、なかなか笑えるので、それはまあ見どころだろう。


以上、こうして書き上げてはみたが、
自分で読み返してもこの文章からは、
結局面白かったんだか、何なんだか、全然伝わってこない。
何でか、というと、自分でもよくわからないから…。
もう一度観たら、もっと映画から読み取れることもあるのだろうか。
しかし、あのオトコの裸のことを考えると、
もう一度観ようとは思わないから、その可能性は却下。
わからないまま、もやもやしたものが残るのだろうか。
うーん…、というわけで、朝から不思議な気持ちになってしまったのだった。