真保裕一「奇跡の人 (新潮文庫)」
感涙の名作、と聞きながら、長らく積ん読だった一冊。
何でだろう、と考えると、
〝奇跡の人〟というあまりにも普遍的なフレーズが、そそらなかったから。
どことなく、不安なんだよな、という思いがあったのだった。
で、読んでみると、予想やや的中。
意外と涙腺にこない。
「本の雑誌」の北上次郎書評(氏は文庫解説も)とか、
もう絶賛状態だったのだが、僕的にはいまいち、ピンとこない。
ミステリー仕立ての小説の、
ナゾに関わるとこを語ってしまうのは反則だと承知の上だが、
その隠されていたナゾが、あまりにあっけないのだ。
けっこう遅々として進まない展開にじらされ、
明かされるのが……。
こちらの感性が麻痺してるのかもしれないが、
それくらい、そこまでして隠さなくても、と思ってしまう。
じゃあ、どんな話か、というと、
主人公は交通事故で瀕死の重傷を負い、8年間入院していた相馬克巳。
脳死判定まで受けながら、甦ったことから「奇跡の人」とも
現在31歳となる克巳は、すべての記憶を失ったまま。
看病を続けてきた母も膵臓がんで逝き、退院を余儀なくされた克巳は、
8年前の自分をまったく知らないまま、社会に放り出される。
やがて克巳は、かつての自分を取り戻すべく、旅立つのだった。
記憶喪失、という設定は意外とありふれているんだが、
この小説のオリジナリティは、その〝喪失ぶり〟にある。
ふつうの記憶喪失なら、
目覚めた瞬間「私は誰? ここはどこ?」なんだが、
克巳は、それすら言うことができなかった。
生活習慣はおろか、言葉すらまっさらな状態。
つまり、赤ん坊と同じ状態になってしまったのだ。
だから、8年間のリハビリは、赤ん坊からこどもへの成長期間。
退院する時の克巳は、中学校1年生程度の知識しかない、
こどものような状態だったりするのだ。
かなり興味深い設定だと思う。
人間の性格を規定するのは、環境要因なのか、遺伝要因なのか。
もちろん、相互が複雑に絡み合う、というのが正解だとは思うのだが、
どちらがより優位な要因か、というのは、
研究の中でもたぶん大きなテーマになってるはずだ。
そこで、かつての克巳と、新しい克巳がどう変わっていくか、とか、
どこらへんで変わり様のない克巳の〝本質〟が現れるのか、
掘り下げて、描写していったら、無限の広がりのあるテーマだろう。
で、僕はその部分が、小説を構成する横軸になるのかな、と思っていた。
ちなみに、自分の過去の事実を知るミステリーの部分が縦軸。
しかし、意外に僕が勝手に期待した〝横軸〟は膨らまない。
終盤、ある程度その部分がからんできたりするのだが、
その説明はほとんどなし。
かつての克巳が〝そうだったから〟というだけで、話は展開する。
潜在的な記憶、という説明なんだろうが、どうにも納得いかない。
こういう部分が一度引っ掛かり始めると、もういけない。
だいいち、脳そのものも確か加齢とともに成長するはずだし、
23歳で成長しきった克巳の脳が、
新たに赤ん坊と同様の学習ができるのかな、とか、
細かいところまで気になって仕方なくなる。
そして、そこに描かれたドラマがどうにも感情に響いてこなくなるのだ。
そして、最初にも書いた通り、明らかになる秘密が、容易に予想できる範囲内。
「へえ、そうなんだ」で終わる程度の衝撃しかない。
というわけで、どうにも盛り上がるというところまではいかないのだ。
もちろん、真保裕一ならではの語り口で、読ませ、はする。
あくまで、真保裕一の小説としてはもの足りない、ということなんだが、
設定だけでこっちが勝手に期待した分、落差は激しい。
見当違いな期待をしていただけなので、
普遍的な評価については言及しないが、個人的にはあくまで…。
これだけ書いておいて、人ぞれぞれ評価は違うんだな、
と、とてもどうでもいい結論に達する。
つくづく、難しいもんだ。ああ、消化不良…