舞城王太郎「阿修羅ガール (新潮文庫)」

mike-cat2005-05-05



ハードカバーの時には、気になりつつ買わなかった一冊だ。
表紙はハードカバーのままでよかったのに…、と思いつつ購入。

舞城王太郎は一冊しか読んでいないが、「好き好き大好き超愛してる。」は面白かった。
面白かったけど、思考の垂れ流しのような独特の文体に疲れたのも確か。
そこらへんが微妙に手を伸ばすのにためらいを感じた理由でもあり、
一方でそれはこの作家の魅力でもあったりするから、また難しい。
もちろん「阿修羅ガール」に関しても、
まずはやっぱり疲れた、というのが感想だった。
この文体をどう評価するか、でかなり評価の分かれる作家なんだろうな、とは思う。
特に3部構成の第2部以降は、かなりきつい。
正直言って、半分とばし読み。そうじゃないと、本を投げ出したくなる。
それでも、読み通すことができたのは、第1部のパワーの余韻。
舞城王太郎の魅力のひとつだと思われる、モノローグの力なんだろう。


で、その第1部「アルマゲドン」。出だしからして、かなり強烈だ。
〝減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。
 私の自尊心。
 返せ。
 とかいっても佐野は返してくれないし、
 自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも…〟
何だかよくわからなくなりそうだが、
主人公・愛子と、テク自慢の短小オトコ佐野のナニ、の話だ。
周囲からの〝それなりの〟評判を聞いて、ちょっとやってみたかったからやっちゃった。
でも、後悔はもう、炸裂する。
この佐野(全国の佐野さん、怒りそうだな…)というのが、
小さいだけならまだしも(それ自体は罪悪でもないはずだし…)、
アダルトビデオばっかり見て、そのまんまを実践に移すような、典型的な妄想ちゃん。
愛子の反応も関係なしにいじくり回されて、
しらけっぱなしのナニに、愛子の自尊心はもうぐだぐたになってしまうのだ。
で、しばしそれを悔やむ思考の様子が、そのまんま文章になっている。


で、気になるひと言はその思考の最後。
可哀相過ぎるわたしを、どう救うか、に考えが至る。
思い出すのは、お兄ちゃんのひと言だ。
自己憐憫が一番タチわりーんだよ。うじうじ腐るだけで前にも上にも進まねーから」
「とか言っても自己愛もおんなじくらいタチわりーけど。
 イミイミキとか。あーいう自分が好きとかこんな自分になりたいとか言ってる奴は
 結局自己完結で終わって人の話なかなか聞かねーんだよな。
 とにかく自分自分言ってる奴はどいつもこいつもどんなふうでもとにかく最悪」
で、この言葉を思い出して、愛子はとりあえず自分自分言うのをやめる。
内容はともかく(笑)、なかなか面白い。
もちろん、これを一切改行なしで読んでると、どうにも不思議な感覚が増幅されるんだが。


ここから、まあ予想だにできない展開の連続で、
調布あたりがアルマゲドンに巻き込まれていくんだが、まあそれは読んでのお楽しみ。
少なくとも、ここまでは一気読みするぐらい面白い。
ただ、最後のアルマゲドンが、ネット中継よろしく、ネット掲示板の書き込みで描写される。
いかにも〝2ちゃんねる〟っぽくて、
これがまたリアルさと嫌悪感を抱かせるんだが、読んでいくとのめり込む。
実際の掲示板のリアルタイム実況とはまあ、微妙には違うと思うんだが、
なるほど、〝アルマゲドン感〟にあふれていて、迫力もある。
ああ、「好き好き大好き超愛してる。」にも通じる、舞城王太郎の小説の醍醐味だ、と感じる部分だ。


これが第2部以降になると、一気に展開についていけなくなる。
それは僕の読解力? という話もあるけど、
ストーリー自体ももうコントロールを失った感じで、
第3部で収束するはず、とわかっていても、読み続けるのはつらい。
加えて、過剰に大きな活字を使った表現にも、違和感はぬぐえない。
好き好き大好き超愛してる。」では大丈夫だったけど、
やっぱり文庫というメディアだと、浮き上がった感じがどうしても強いな、と。


こうやってつらつらと書いているうちに、
結局ぼくは舞城王太郎の〝いい読者〟ではないのだな、と悟る。
じゃあ、もう読まないか、というとたぶん読むんだが、
それくらい、第1部と第2部の落差が激しいということをいいたかったわけで…
ううん、小説でよくわかんなくなってしまった分、レビューも混乱気味。
あっ! それはふだんから? そうだったかも…