リチャード・モーガン「オルタード・カーボン」

mike-cat2005-04-17



フィリップ・K・ディック賞受賞!
 「マトリックス」「ダイ・ハード」のプロデューサー、
 ジョエル・シルバーワーナー・ブラザーズ映画化〟らしい。
このテの惹句は、けっこうありがち。
意外に映画化されなかったりすることも多いんだが、
この設定なら、最終的な出来はともかく、
映像化に向いているような気がする。


時は27世紀。ひとの〝こころ=精神〟はデジタル化され、
モリー・スタックといわれるICチップに記録され、
スリーヴといわれるクローン製造したボディを移り変わることができる時代。
たとえ死んでも、メモリー・スタックが破壊されていなければ、
ほかのスリーヴに移動して、生き永らえることができる。
スタックを破壊されれば、R・D(リアル・デス)が待っている。
ただ、富裕層は定期的にメモイー・スタックをバックアップすることで、
不老不死を実現できるのだ。


主人公は、〝精神〟のメモリーをレーザーで送信され、
宇宙のどこにでも出撃する特殊部隊エンヴォイ出身の、タケシ・コヴァッチ。
エンヴォイ追放後、監獄に保存されていたコヴァッチの精神は、
地球の元刑事の体にインストールされ、ある富豪の依頼を受ける。
〝自殺〟した富豪の依頼は、「わたしを殺したのは誰か、調べて欲しい」。
それは、バックアップしたメモリーで甦った富豪からの、事件調査依頼だった。


とまあ、とてもそそる設定だったりする。
設定が魅力的なSFって、えてして背景説明などに行数を割きすぎて、
話のテンポが全然だったりすることも多い。
だが、この「オルタード・カーボン」は、
〝ディテイルにこそ、神が宿る〟とばかりに、ディテイルには凝りながら、
ストーリーのテンポ自体を損なうことがない、希有なSFだ。
ディテイル描写が独善的でなく、そのままストーリーに深みを与える。
そう、小説の縦軸と横軸のバランスがとてもいいのだ。


ストーリーの中心となる〝精神のデジタル化〟そのものが、やはり興味深い。
もちろん、まずはスタックに記憶だけでなく
〝精神〟や〝感情〟〝人格〟そのものまで記録できるのか、という点。
もちろん、SFだから技術的な問題をどうこうしてもしかたないんだが、
それでも、まず脳という人体組織そのものの構成と、
〝人格〟なんかは、別物なのか、という疑問が湧く。
つまり、コンピューターを例に取れば、
脳はあくまでCPUとかメモリーに過ぎないのか、ということ。
ハードディスクか、もしくは外部メディアさえ読み込めば、
まったく同じコンピューターになるのか? という疑問だ。
やっぱり、脳そのものの持つ〝スペック〟や〝構造〟は、
人格や精神に影響はしないのかな、とも思うんだが、
そこらへんはこの小説では、あくまで〝すべてをスタックに記録できる〟らしい。


ただ、この小説の中でも似たような問い掛けはされる。
ヴァチカンは、この〝人格〟のデジタル移送を認めていない。
〝機械にあなたの魂が救えますか?〟
だから、カトリックの信者は、たとえ不当に殺されても、
モリー・スタックを使っての復活は許されない。
で、この小説には六五三号判決、というのが出てきて、
重要事件被害者の人格〝再生〟をめぐって、
当局とヴァチカンが対立したりするのだ。ううむ、深い。
まあ、何となくカトリック産児制限とかを批判してるんだが、
かといって、この作者が〝デジタル化〟を礼讃しているわけでもない。


たとえば、貧乏人はスタックのバックアップを取れないから、
スタックを破壊されたら、一巻の終わり=R・Dなのだ。
だから、不老不死は金持ちにしか、もたらされない恩恵だ。
貧乏人の犯罪者は、精神を監獄に保存されている間に、
スリーヴを買い取られ、元に戻りたくても戻れない。
別のスリーヴには当然違和感があったりして、
デジタル化した人格と、体は決して分離した存在ではないこともにおわす。


だから、スリーヴの乗り替えはそれなりに苦痛だったりするらしい。
反老化処置を施したとしても、
老化していくスリーヴで生きることは苦痛でしかなく、
二度目、三度目のスリーヴ交換を経た後は、
基本的にはふだんは保存状態にあり、
何かあったときに一時的に復活して、時間を過ごすことになるという。
かつての手塚治虫のマンガとかで読んだ〝冷凍睡眠〟と同じだ。
もちろんそれとて、生への執着が強い大金持ちは別だ。
若くて生きのいいスリーヴを次々と購入することで、何百年と生きる。
よく、〝冷凍睡眠〟なんかで出てくるのは、
家族や友人が先に年老いて、逝ってしまう哀しみが描かれるが、
こういう独善的な人種は、あまりそういうのも気にならないし、大丈夫なのだ。


長くなってきたが、議論の的になりそうな点もうひとつ。
バックアップされたメモリーを〝再生〟された〝自分〟は、
はたして〝本当に自分なのか〟という点だ。
スタックに人間の魂、精神がすべて記録できる、と仮定しても、
この、何をもって〝自分〟なのか、という部分は難しい。
これは、もちろんクローンでも同じ問題をはらむんだが、
同じ記憶、同じ性格、同じ感情を持っていたとしても、
自分Aと自分Bは、分離した時点で別人格なのだ。
だから、自分Aのスタックが破壊された時点で、やはり〝自分〟が死ぬのだ。
生命の意識は、そこで途絶える。残っているのは、自分と同じ形を持つ別の意識だ。


以前、シュワルツェネッガーの映画で「シックス・デイ」というのがあった。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=161721
悪者が殺されても、殺されても、平気な顔してクローンで復活するんだが、
これって、やっぱり一番最初の悪者は死んじゃってるんだよな、と、
何だか不思議な気持ちになった記憶がある。
さも、同じ人のような顔して、出てくるんだけどね。
そんなことを思い出すと、この小説を読んだ後も、
自分Aと自分Bの意識がまるっきり共有されない限りは、
やっぱり別人格でしかないんだよな、などという想いがよぎったのだった。


まあ、書いていくときりがないので、このくらいにしておくんだが、
ここらへんの問題についても、小説の中では触れられていて、
これまたなかなか面白い。こそあど言葉が多いな…、脳みそ摩耗?
で、小説自体のハードボイルドな感じもかなりいけてるし、
ミステリー仕立てとなった富豪殺しの事件も、悪くない。
やはりSFだけあって、とっつきやすい、とは言い切れないが、
田口俊樹氏の訳もとてもスムースで、読みやすさは保証付きだ。
決して、とてもオリジナルなSFではないかもしれないけど、
一読の価値以上のものはある、興味深い小説だった。
このストーリーが、ビジュアル付きで提供されたとき、
どんな出来になるのか、楽しみでもあり、不安でもあるんだが、
やっぱり観てみたい気持ちはとても強い。
残る問題? やっぱり主役はキアヌ・リーヴスかなあ、
としか浮かばない、僕の凡庸な発想にありそうだけどね。