豊島ミホ「檸檬のころ」

mike-cat2005-03-08



青空チェリー」「日傘のお兄さん」と、
キュンとくるいい作品を送り出してきたこの作家。
また、傑作を書いてしまってる。すごい。
ここ一週間ほどで、傑作!とばっかりいってるが、これも傑作だ。
嘘じゃないって、ホントだよ。


小説のテイストとしては、
佐藤多佳子黄色い目の魚」とか森絵都永遠の出口」、
江國香織だと「いつか記憶からこぼれおちるとしても」に通じる、
切なくって、甘酸っぱくて…みたいな、〝あの頃〟もの。


若い頃って、いいことばっかりじゃない。
情けなかったり、いま考えると、くだらなく思えることでも、とっても辛かったり。
いま考えるとくだらない、ってことも、
あの頃はホントに大事なことだったわけで、
それもまた思い出すと切なかったり、食道のあたりが詰まった感じになってみたり。
でも、総体的にあの頃を思い起こすと、
その辛かったり、情けなかったりも含めて、
あの頃にはあの頃にしか感じられない、楽しさがあったりして、
何書いてるかわからなくなるような、キュンとした感じになる。


恋愛と同じかも。
楽しいことばっかりじゃない。辛いこととか、切ないこともあるけど、
やっぱり、そんなのも含めて「いいなあ」という感じ。
もちろん、あの頃も〝恋愛〟は、
それが華やかなものであっても、単に淡くって地味なものだけでも、
それはもう一大事だから、
〝あの頃〟の気持ちを語るのにかなりのウェイトを占めるんだが。


連作の舞台は北国だ。
45分に1本の通勤電車にゆられ、地方の街の学校に通う。
その地方の街だって、ぜんぜん田舎だ。
ショッピングビルがふたつだけ。
そこには、土産物屋とか入ってるような、単なる駅ビル。
あとは古いビジネスホテルと、居酒屋だらけ。
ろくにコンビニもないような、田舎町だ。
だけど、そこにだって、〝セイシュン〟はある。
〝女子高生気分を味わうには十分だった。
 だって、さびれたショッピングビルの中でも、
 ハンバーガーを食べてプリクラを撮ることができる。
 わたしの住んでいる町には、
 ハンバーガーを売るような店もなければ、
 プリクラの一台もなかったのだ
 ハンバーガー屋がマックじゃなくドムドムバーガーでも、
 プリクラの機械が最新型の大きなやつじゃなくっても、
 それは私たちにしてみればささいなことだったのだ、本当に〟


僕は東京は新宿で生まれ育った。
いまの10代のコほど、おカネさえ出せば何でもある、
という状況じゃなかったけれど、モノはいつでもあった。
だから、この状況にいたとしたら、かなりきっつい。
きっついとは思うが、僕にもこの
〝そんなのささいなこと〟感覚は理解できる。
もちろん、生活の舞台装置はとっても大事だけど、
〝あの頃〟だったら、それもささいなことだ。
だって、それに頼らなくっても、世界は楽しいことでいっぱいだから。
ある意味では大変なことがいっぱいで、
舞台装置まで、気が回らなかった、ともいうんだが。


ちなみに、著者自作のPOPでも、その感覚が前面に押し出されている。

おう、なかなか雰囲気でてるかも。


心理描写ももう絶妙だ。
いっっっっっっっっっつも絶妙という言葉を乱用しているが、
きょうはホントにホント。信じて…
冒頭の「タンポポのわたげみたいだね」では、
保健室登校の親友サトと、
交際を申し込んでくる藤山君とのはざまで悩む橘ゆみ子の姿が描かれる。
この藤山君ってのが、けっこう嫌なやつ。
ゆみ子がサトにかまっているのが、じれったく思える。
平気で「あんなブス、ほっとけよ」とかいっちゃう。
こんなヤなやつんなんだが、
サトの状況には困り果てているゆみ子は微妙に迷う。
で、藤山のことでサトと話す機会があるのだが、ちょっと引用する。


サトが、保健室登校の理由をこう話す。
〝「たとえばさあ。私が教室に行きたくないのは、
 皆が藤山と同じように私を見下してるからだって言ったとして、橘、わかる?」
 藤山君はサトのことを「ブス」と言った。
 クラスの半分くらいの人たちも、
 確かにそういうことを平気で言えるかもしれない、と思った。
 だとしても、そう言われたことのない私には、
 いまいち実感が湧いてこないのも事実だった。
 別にそれくらい放っておいて自分は自分で授業に出てればいいのに、という気もした。
 「………わかんない、かも」
 わたしがつぶやくと、サトは「でしょ」とこちらを見た…〟
まあ、あの年代独特の繊細さと、その裏の傲慢さが、
非常にバランスよく描かれていると思う。
美しいばっかりじゃない、むき出しの〝セイシュン〟。


その傲慢さ、に苦笑して見せたりするのが、
サトの担任教師を主人公にした、「担任稼業」だ。
まあ、生徒のことを思う、教員の気持ちってのは千差万別で、
自分の考え方に当てはめてしか、〝生徒のためを〟思えないタイプから、
何が生徒のためになるか、こころを砕いていくタイプ、
自分が接する中で、スポーツでも、音楽でも、小説でも、なんでもいいが、
さまざまな価値観と触れ合わせてくれる、
何かに出会えるよう、ガイドしてくれるタイプとか、ホントにいろいろいる。
ここまで書き込んでれば、もう一目瞭然だが、
ちなみに、僕は3つ目のタイプの教員の方がいいです。
もちろん、押し付けがましくなく、ね。


話を戻すと、この小説での担任教師は、
どこまで踏み込んでいくべきか、どういってあげれば、生徒が納得できるのか、
そもそも、どの方向にアドバイスしていけばいいのか、常に悩んでる。
別にワケわかんなくなってるんじゃなくて、常に自問自答を繰り返す。
いいねぇ、こういうセンセ。
ちょっと長く生きているだけで、自信満々な教師より、全然信用できる。
でも、サトとの〝進路指導〟の中で、つい口を滑らす。
「自分を過大評価してるんだよ、お前は。いいかげん悟れ」


これ、真実を突いているケースが数限りなく多いんだろうと思う。
誰だって、若い頃は自分には無限の可能性を持っていると思う。
で、だんだん何かを悟っていくんだが、
不登校とかして、外部との接触を絶つと、
その現実に目を向ける機会は自然と減る。
もちろん、不登校のひと全員が現実逃避してる、というつもりはないが。
まあ、いってみれば、ホントに才能のある人なんてすごく少ないのだ。
ほとんどの人が、いつかは凡人であることを知らされる。
それは、かつての天才少年であっても変わらない。
しかし、こういう真実を他人から突きつけられるのは辛すぎる。
「あたしだって知ってます。そんなの。知ってるけど」。
「先生、全然分かってない!」。叫ぶサトの気持ちはもっともだ。


立ち去ったサトが残していったモノを見て、
担任教師は自分の〝あの頃〟を思い出したりする。
坂口安吾の「桜の森の満開の下」。
青臭い記憶。でも、何だか、いい。
紆余曲折を経て、サトともう一度和解できたあと、
サトからはきっついひと言が帰ってきたりする。
〝「…これ。貸しましょうか? 先生こういうの読んだことないでしょう」
……笑うしかない。まったく、生徒というのは何にも分かっちゃくれないんだ、なあ。〟
いや、若いって傲慢ですなぁ…
しかし、すごくその傲慢さが読んでいて、心地いい。
こういう部分がきちんとフェアに描写されるから、
サトの繊細なこころの動きも、とても伝わってくる。


そんなとっても心地いい連作は、
最終章の「雪の降る町、春に散る花」でクライマックスを迎える。
のどの奥にグッと熱いものがこみ上げてくる。
大学進学で、わかれわかれになる二人のお話だ。
東京の私大に受かった加代子と、地元にとどまることになった、富蔵。
遠距離恋愛なんて、とてもムリ…
どこか諦念みたいなのが漂う。ここらへんも、すごくリアルだ。
日に日に、別れの日が近づく。


1年経ったら、もうすっかり忘れている恋かもしれない。
だけど、それがその恋の意味や価値を損じるモノじゃないのは当然。
どうしていいのか、わからないまま、その日は訪れる。
かすかに触れ合う指、聞こえない最後の言葉…
新しい旅立ちの日に味わう、
さまざまな想いがかけめぐるラストは、もうグーッと胸が締め付けられる。
このシーンの秀逸さは、もう読んでもらうのが一番。
最初にも書いたが、ホントに傑作だ。読むしかない。
って、ちょっと前までこういうネタ使ってた芸人がいたな。
最近、すっかり露出が減ってしまったようだけど。