宇江佐真理「甘露梅―お針子おとせ吉原春秋 (光文社時代小説文庫)」

mike-cat2005-02-17



きょうからは高知入り。寒い…
東京とかから来ると、田舎だなあ、とか感じるのだろうけど、
沖縄と比べると何だか都会に見えてくるから不思議。


で、またも時代小説。
こちらは、吉原の遊郭にお針子として奉公した岡っ引きの未亡人、おとせの物語。
吉原の風習に戸惑いつつも、その雰囲気に魅せられていく、人情ものだ。
かつて花街が、流行の最先端を走っていた時代の、
粋だとか、その空気が感じられて、なかなか興味深い。


花街というと、どうにも生々しい、みたいな風に思ってしまうところだが、
なかなかどうして、風流だったりする場所だったらしい。
息子夫婦に居場所を奪われ、吉原に出向いたおとせは
〝吉原に暮らすようになって、おとせは季節を強く意識するようになった。
 正月の松飾り、二月の初午、三月の桜、四月の菖蒲、
 五月は川開きの花火を眺める趣向、六月は吉原田圃の富士権現の祭礼、
 七月は七夕、八月の八朔、九月の花見、十月の玄猪、
 十一月は防火のまじないの蜜柑投げ、師走の煤払い、餅搗き。〟
聞いているだけでわくわくしてくる。もちろん、
〝何んの彼んのと客を呼び寄せるために引手茶屋も遊女屋も腐心〟しているのだが。


物語は、そんな季節の移り変わりとともに、進んでいく。
もちろん、その季節感は、人間の非常に強い意識がからんでくるので、
移り変わりは時に強引だったりする。
桜は三月の末になると、無理やり取り払われて、菖蒲に切り替わる。
だから、おとせはこう思ってもみる。
〝すべての花びらが散って葉桜になるまで眺めていたいと思う。
 しかし、吉原で葉桜に風情を感じる趣向はないのだ〟
ここらへんも、すごく花街のならわし、みたいなのが伝わってきて、感慨深い。


物語は、おとせの周囲の人が、悩んだり、喜んだり、そして去っていったり…
切なさと、儚さと、さまざまな感情を内包しながら進んでいくのだが、
そこからも、かつての吉原の雰囲気が伝わってくる。
火事で死んだ遊女の葬儀を取り計らう、
遊女屋の主人、角兵衛のことを描写するくだりがある。
〝仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目を忘れなければ、
 できない商売だから亡八と呼ばれる、遊女屋の角兵衛。
 八つの徳目の中には、そういえば情は入っていない。
 亡八にも情けはある。
 そう気づいて、おとせは寝間着の袖を口に押し当てて咽んだ。〟


連作最後の短編〝仮宅・雪景色〟は、
そんな切なさの中、温かい結末を迎える。
涙が止まらない、というわけではないが、ほんのりとこころが温まる。
傑作とはいわないが、また読みたくなる、味わい深い小説だった。
で、いまの吉原って、全然知らないんだが、
こういう雰囲気、微塵でも残っているんだろうか?
いや、全然残ってないんだろうな…