カズオ・イシグロ「日の名残り (ハヤカワepi文庫)」

ハヤカワのepi文庫♪



懐かしいな、という感じ。ジェームズ・アイヴォリー監督、
アンソニー・ホプキンス主演の映画の公開は、もう10年以上前だ。


しかし、10年前といまの僕の感性の違いもあるのだろうか、映画の記憶は
〝ストイックなまでに感情を抑制し、品格を追求する執事、スティーヴンスと、
 同じ屋敷で働く女中頭、ミス・ケントンとの淡い悲恋〟だったのだが、
今回、小説を読んでみるとそのロマンスもひとつの要素だが、むしろ、
〝執事業に執着するあまり、人生の価値や、愛すらも見失った男の悲喜劇〟
という感じが強い。そう、悲しいだけじゃなく、哀れで滑稽なのだ。


物語は、一次大戦から二次大戦の間の〝過去〟が、
二次大戦後の〝現在〟の進行の中で、たびたびフラッシュバックされる形で進む。
フェアな政治を心掛けるつもりが、あやまってナチに偏向してしまった貴族に、
執事として仕えたスティーヴンスの半生は、滑稽にして哀しい。
その貴族が去った屋敷の、新しい主人はアメリカ人。
思わぬ休暇をもらったスティーヴンスは、
かつて屋敷に務めた女中頭、ミス(ミセス)・ケントンのもとに出向く。
かつての回想とともに、自己否定と自己正当化を繰り返すスティーヴンス。
「いったい、何がいけなかったのか? いや…」。
貴族階級の没落や、因習に縛られた英国の悲しみとダブるような、
ティーヴンスの悩みが、こころを打つ。


これが、映画だと微妙に違う印象になってくる。
小説だと、このスティーヴンス、確かに優秀な執事だが、
思考のそこかしこに卑屈さや、矮小さもにじみ出る。
これが、悲喜劇の味わいになっているのだが、
映画でサー・アンソニー・ホプキンスが演じちゃうと、
その貫録が邪魔するのか、僕がそのイメージに縛られちゃうのか、
滑稽なまでのストイズムに、本当に品格が感じられてしまう。
だから、小説では、〝単なるニブチン〟感の強い、ミス・ケントンとの悲恋も、
あくまでも執事としての道を追求するため、
〝確信犯的に〟気づかないふりをした、みたいに思えてしまうのだ。


もちろん、それは僕の個人的な印象でしかないのだが、
アイヴォリーの演出、ホプキンスの演技は確実に物語の印象を変えたのだ。
ちなみに、映画でミス・ケントンはエマ・トンプソンが演じていたのだが、
これもまた、重厚さに輪をかけてしまい、喜劇性を微妙に損ねた要因になってそうな…


だからといって、映画のできをどうこういう気はまったくなかったりする。
映画は映画で独特の味わいがあったし、
〝名作〟という言葉を使っていいほどの、深い感動を覚えた。
じゃあ、小説はがっかりしたのか、というと、全然そんなことない。
これもまた、素晴らしい小説だった、というのは
今回の小説は、その同じ物語のアナザー・サイドを楽しんだ、という感じだ。


やはり、その〝楽しんだ〟要素といえば、スティーヴンスの人柄だろう。
「おセンチな恋愛小説」を読んでいるところをミス・ケントンに見とがめられると、
執事としての職業的価値に関連する、言語能力の習得のだとか、
そこに書いてある、利用価値のあるエレガントな会話は、学術書にはない、だとか…
〝読んでみたかった〟でいいのに、やまほど言い訳をこしらえるあたりに、
自分でも説明しきれない〝品格〟を求めてみたりする。


新しい主人のアメリカ人の軽い受け応えに、当意即妙に答えられない自分に思い悩むが、
ジョーク一ついうのにも、いちいち理屈をつけないとできない。
ラジオで研究を重ね、ヒマがあれば一日に3つのシャレを作る。
受けなかったジョークを、真剣に吟味し、その原因を探る。
ジョークひとつ言わなかった人間が、芸人並みの探求を始めたりするのだ。
格式ばかりを重んじる、貴族社会の風刺、という部分もあるのだろうけど、
世の中の変化に戸惑う、人間スティーヴンスのこころの動きも、
ある意味コメディに通じる部分がある。


とまあ、こんな感じで、一気読み。
ブッカー賞受賞の名作ブンガク、と思って、
いままでなかなか手をつけなかったのが悔やまれる、かも。
本のイメージよりも、ずっと読みやすくって、こころに染み入る、面白い小説だった。