宮部みゆき「日暮らし 上」「日暮らし 下」

一気読み間違いなし♪



そう、あの「ぼんくら」の続編だ。
ぼんくら同心・井筒平四郎と、その甥にして未来の養子・弓之助が、
本所深川の事件に挑む、人情時代劇ミステリーってとこですか。
こういうベストセラーは、説明がかえって難しいかも。
まあ、基本的には切れ者だが、面倒くさがり&横着な平四郎と、
誰もが振り返る美男子で、天才的な頭脳の持ち主、弓之助。
この組み合わせの妙なんだろう。「ぼんくら」同様、とにかく読みやすい。


今回も、いくつかの短編で張り巡らされた伏線が、
中盤からの長編に一気に集約された形で、ストーリーの深みと広がりをもたらす。
まずは、岡っ引き政五郎の手下で、驚異の記憶力を誇る〝おでこ〟が思い悩む「おまんま」。
前作で、鉄瓶長屋の若き差配人として活躍した佐吉と、その女房・お恵の夫婦仲を描いた「嫌いの虫」。
佐吉の〝死んだはずの母〟葵の隠遁生活と、その女中・お六が巻き込まれたトラブルを描く「子盗り鬼」。
鉄瓶長屋のおなじみ、煮売り家・お徳の商売敵登場を描いた「なけなし三昧」。
これらでじわじわとストーリーに引き込まれていくと、
前作でも事件の裏側で暗躍した大商人の湊屋総右衛門も関連した、
ある殺人事件を解決すべく、奔走する表題作「日暮らし」で、一気に燃えあがる。


こちらも前作同様、厳密に言えば、謎解き的な要素はそこまで重要ではない。
その事件に潜む、さまざまな事情などが呼び起こす、切ない感覚が味わいを生み出している。
これまた相変わらず、キャラクター造型、ディテール描写は最高。
読書の楽しみ、を存分に味わえる一冊(上下巻2冊、だけどね。)だ。
あんまり読みやすいんで、本の終わりに差しかかると、
ジェフリー・ディーヴァーリンカーン・ライム・シリーズと同じ感覚に襲われる。
何だか、読み終えるのがもったいないのだ。
「もうちょっと、続いてくれないかな…」。そんな感覚だ。
で、すんごく面白かったのに、物足りない、というわがままな感情がわき上がる。
こういうのが、ホントに面白い本なのだろうけど、難しいもんだな、と思う。


印象的なフレーズは、もちろんめじろ押しだ。
まずは「嫌いの虫」から。
佐吉のこころが離れたのではないか、というお恵。
カラスの官九郎を失い、さらに落ち込むお恵に弓之助が、平四郎の教えを説く。
「一度自分が親しく思ったものが、どんな理由であれ離れていく。
 それが我慢できないというのも立派な欲だと。
 それでも、その欲がなければ人は立ちゆかない。そういう欲はあっていいものだ。
 だから、別れるのが嫌だから生き物と親しまないというのは、賢いことではない−」
「そして、いつか別れるのではないかと、別れる前から怖れ怯えて暮らすのも。
 愚かなことだと教わりました。それは別れが怖いのではなく、
 自分の手にしたものを手放したくないという欲に、
 ただただ振り回されているだけのことだから」


もちろん、当たり前のことなんだが、
この状況設定のもと、このぼんくら同心の言葉を、このませた天才少年が語ると、
味わいもひとしおだったりする。むむむ、すごい。
でも、平四郎に感心するお恵に、弓之助はとぼけて
「いえいえ、叔父上は鼻毛ばかり抜いている御仁です」。
これもまた、お約束とは思うけど、いい。


こちらも印象的だった。「日暮らし」の中の一場面。
お徳の煮売り屋に通い詰める一流料亭「石和屋」の庖丁人(花板)が、思い悩む。
「そりゃ、修業したおかげで、あたしは豪勢な料理をつくれるようになりました。
 けどね、それを親父にもおふくろにも、兄弟たちにも食わせてやることなんかできなかったよ。
 あたしのもらってる給金じゃ、石和屋の料理は食えねえんだ。
 そんなんじゃさ、あたしは二十年以上も、
 いったい何をやってきたんだろうって思っちまうのも、しょうがないでしょう」
現代にも通じる、普遍的なテーマだよなぁ、と感慨を覚えたりする。
然るべき代償を得るべき才能や、努力が報われない、この無力感。
切なくって、ため息が出てしまった。


しかし、今回の隠れた主役は誰もがうらやむ、〝すべてを手にした少年〟弓之助だ。
賢すぎる、美しすぎる13歳。
すべてが見通せてしまうから、そしてすべてが理解できてしまうから、
嫌なものすらも、すべて真っ正面から見てしまう。
そう、繊細すぎるのだ。
裕福な商家に生まれても、貧乏な子どもたちの姿を見て、思い悩む。
何もかも、受け止めるわけにはいかないのに、恵まれた自分を恥じてしまうのだ。


ぜいたくな悩みに大金を投じ、ひとの人生を左右する大商人の湊屋総右衛門。
その宗右衛門を揶揄する平四郎と、宗右衛門の手下・久兵衛との会話を、弓之助が盗み聞きする。
「〝想うとか想われるとか、愛しいとか憎いだとか、
 そんなことばっかりで、俺たちゃ生きていかれねえよな?
 そういうことは二の次三の次、日々の暮らしで精一杯。
 俺はよ、そんな連中のことならよくわかる。
 だが、湊屋さんのご事情は、俺には−手に負えねえよ〟
 やけっぱちの剣突だ。久兵衛は返事をしない。雨の音を聞いている。
 遠くで、弓之助がくしゃみをした。」
弓之助のこころの中は、さぞかし揺れまくっていることと思う。
この仕事に、何の意味があるのか。自分は何をすべきなのか…。
こういう少年の、人知れぬ不幸というのを想うと、これまた、胸が苦しくなる。


事件が解決に向かっても、弓之助のこころにこびりついた哀しみや切なさはぬぐえない。
事件解決の爽快感の一方で、
こうした感情をひとつひとつ背負っていく弓之助に、思わずうなってしまったりする。
これもまた、この小説の味わいのひとつだったりする。
こうした経験から、平四郎も自らを守るよろいとして、横着さや図々しさを身に着けていくのだろう。
この弓之助がこの後、いい具合に愚鈍になってくれることを祈りつつ、
さらなる続編への期待を馳せるのだった。