江國香織「赤い長靴」

赤い長靴は、クリスマスの…



ぶらっと本屋に入ったら、江國香織の新作を発見。
さっそく読んでみることにした。
ちなみに、ブログ執筆は二日遅れだったりするが…


前作「間宮兄弟」とはちょいと違う、というか、
いかにも江國香織な感じの小説。
ストーリーそのものは、そこまで印象に残らない。
しかし、部分部分には印象的なフレーズが散りばめられてる。
つくづくディテールを含めた、情景描写の作家だな、と思う。


主役は結婚後、10年以上を経たカップル。子供なし。
横着なのか、無神経なのか、常にこころここにあらずな逍三。
そんな夫に、いら立ちや無力感を感じながら、てなぜか安らぎも感じる日和子。
「何でこんな男と結婚したのか、なぜ結婚が続くのか…」
正直いって、読んでいてよくわからんし、かすかないら立ちを覚える。
だって、わがままだし、別に取り立てて優しいわけでもない。
魅力的な男、とは言い難い、無個性な夫だ。
でも、何かどこかほかにひきつける部分があるんじゃないか、とも思うが、
といえば読んでいる限りではまったく伝わってこない。


こんなオトコと暮らしている妻の話、面白くなさそうだが、
そこはそれ、江國香織だ。前述の通り、読ませる描写で失点を取り返す。
まずは冒頭の「東北新幹線」だ。
東北新幹線というものは、どうしてこううら淋しい風情なんだろう」で幕を開ける。
開通は東海道よりはるかに最近なのに、古びれた車両。
どこかうらぶれた乗客。どことなく、隙間の目立つ座席…。
そんな条件以外にも「そこにはもっと別な力が働いているように思えるのだった」。
いいねえ、何だか、とても考えさせられるような感じだ。
そして、1両に乗り合わせた、どこかヘンな乗客たちを
「自意識のぴりぴりした、閉鎖的な、それでいて寛いだ−。
 このまま、この六人で暮らすこともできるかもしれない。
 日和子は思った。
 みんな不機嫌そうな、あるいが不幸そうな顔つきで、むっつり座り込んでいるもの」。
そんな感情を日和子は
「逍三と十年暮らすことだって、それとさして変わらなかったのではないか」と考えてみる。
不穏でいて、なぜか納得のいく、ふわふわとした感覚を残す。


日和子の悩みは逍三と、その両親に「言葉が通じない」ことだ。
同じ言語を話していながら、言葉が通じない感覚。
たとえば、日和子はパートタイムの仕事をしているんだが、
両親にとって、それは「かわいそうなこと」なのである。
「実際に働き始めてから逍三の両親に話した。
 あまり歓迎されなかった。彼らは日和子にではなく逍三に文句を言った。
 なぜそんな必要がある、と問われたらしい。」
逍三さん、およびその両親はすごい裕福とかじゃない。
働くことそのものに、違和感を覚えるき貴族とかではないのだ。


「日和子さんがかわいそうじゃないの。逍三の母親はそう言ったという。
 日和子が違和感を持つのは、そういうとき、
 言葉がもはや本来の意味を失っていることだ。
 いいえ、私が好きですることですから、
 と、たとえば言ってみたところで、だから少しも影響は与えられない。
 意味を失った言葉はまるで暗号のように、
 日和子を除いた親子のあいだでやりとりされるのだ。」。
根本にある人生観そのものが違うのだが、ここでは
その違いを理解できないほどの乖離を見せていたりする。恐ろしい。
もちろん「言葉が通じない」逍三たちは、その感覚すらも理解できないんだが。


そんな言葉だけでない、人生そのものの齟齬はその後も延々と続く。
正直、最後まで読んでも、
こんなオトコと結婚を続けることに明快な意味は見いだせない。
だが、その不条理を話としてつなげていく力になるのが、
前述の通り、そのたびに描かれる、
日和子のこころ微妙な動きだったりする。
「自分は逍三に、いつまでたっても慣れることができない。
 それは愉快なことに思えた。
 愉快で幸福な、かなしくて身軽なことに。」
説明しろといわれてもできない、
でも、何となく分かる感覚だ。
不透明な、それでいて何となく意識に染み込んでくるような。


だが、これがこの小説の味わいなんだろうとも思う。
そう、いかにも江國香織、なんだと思う。
読むべきか? ううん、読むべきなんだと思う。
傑作か? ううん、よくわからない。
でも、とても気になる作品だったな、ということだけは確かだ。
年月が経って、いつか明快に理解できる日がくるかもしれない。
でも、僕はもっと単純に生きたい。
少なくとも、不透明感を楽しむのは、小説の世界だけで十分だな、と思うから。