桐野夏生「I'm sorry,mama.」

いいんですか? こんな小説ばっかり書



ひとことでいうと、後味の悪い小説だ。
主役は、親を持たずに娼館で虐待され、
戸籍もないまま育てられた松島アイ子。
悪意の中で育ったアイ子は、
子どものころから誰も信用せず、
逆に他人を食い物にして生きるようになる。
そして、かつて虐げられた恨みを晴らすべく行われる、容赦のない復讐…
ああ、書いているだけでイヤ。


小説の冒頭が、25歳年下の施設の子どもと結婚した、
腹黒い福祉施設の元園長のストーリーが語られる。
どこか腐臭の漂うような、2人の関係。
その25歳年下の夫、42歳の稔の描写だけで、嫌悪感が募る。
「色褪せた大き目のジーンズにパーカー。整髪料で逆立てた茶髪。
 アーティストっぽく、顎髭を少し伸ばしている。
 貧相な小男の稔は中年になっても三十代前半にしか見えない」。
これで、25歳年上の元園長先生に幼児プレイをねだる、
社会に対してすね続ける42歳。おえっ…


じゃあ、そんな小説読むなと、というとこなんだが、
こういう嫌悪感をうまいこと使って、悪意あふれる小説を書かせたら、
この作者の右に出るモノはいない。と思うけどどお?
グロテスク」「残虐記」なんか、その典型だった。
新潟の少女誘拐飼育をモデルにした「残虐記」は、物足りない印象も強かったが、
東電OL殺人事件を題材にした「グロテスク」は、人間の悪意をとことんまで描いた、
ものすごく後味の悪い、でも下世話な感情をかき立てられる傑作だったと思う。
グロテスク 残虐記
小説では松島アイ子の復讐ぶりと、
ちょっとしたことでも平気でヒトを殺す、おどろおどろしい行状が淡々と描写される。
そして、その子ども時代。これがまた怖い。というか切な怖い。
何しろ、原記憶がとてつもなくすごい。
「あたしが最初に覚えているのは、長い廊下を蹴られながら移動している自分さ…
 …蹴っているのは、娼婦のお姉さん。名前はヤスコ。
 あんたなんか要らないんだよ、この穀潰し、居候、ええい目障りだ」 
それを見た娼館の客が「気分が殺がれた」と帰っていくと、サンダルで叩かれるのだ。
ひぃ、助けて。哀しすぎるし、怖すぎる。


こんな育てられ方をした女の子が、里親の家に行くと、こう描写される。
「アイ子は小学四年生だったが、子供の目をした大人だった。
 おかめのような細い下がり目をして、がりがりに痩せた色黒の女児。
 目はいつも忙しなくあちこちを観察し、どう振る舞えば得するかを常に窺っていた」
ううん、怖いよ。どうしてくれよう。


だから、このアイ子の復讐には、ホント情けがない。
ここらへんはホラーっぽい感じなので、あんまりくわしく描写しないけど、
こちらもやめて、って感じ。あ痛た…、と口に出したくなるような、
単純で、容赦のない感じが、また怖い。
貴志佑介「黒い家 (角川ホラー文庫)」には及ばないけど、怖い。かなり怖い。
黒い家 (角川ホラー文庫)
まあ、あの小説は僕の場合、映画を先に見て、
大竹しのぶのイメージが最初からあっただけに、よけい怖かったのもあるけど。


ただ、このアイ子の場合、前述の哀切の部分がまた深い。
子供のころ、新しいノートすら買ってもらえなかったアイ子は、
書き込んだ部分を消しゴムで消して、また使っていた。
うまく消さないと、破れるので、いつしかノートを取らなくなる。
やがて、アイ子は
「知識や経験を蓄積して思考する習慣を綺麗さっぱり忘れてしまったのだ」。
前半部分は切なくて、たえられないんだが、
後半の部分はそういえば僕もメモ取らないおかげで…、と二重に怖い。


また〝一代でホテルチェーンを築き上げた女性実業家〟も怖い。
一度しか泊まったことはないけど、フロントにオーナーの写真が貼ってある、
あのホテルがモデルだろうな、と。ってアパホテルなんだけど。
あの写真のオーナー、一度見たら忘れられない、ヤバさだ。
登場人物は、こんな強烈なヒトばっかり。
その子供とかも、典型的な金持ちのクソガキだから、
多少いじめられてもあんまりヤじゃない。ああ、それは僕だけかも。
ほかにも、出てくるのはホント性根の腐ったヤなヒトばかり。
だから、殺されてもあんまり哀しくない。ま、小説だしね。


でも、殺してるアイ子も哀しいけど、
あんまりに感情が乏しいから、応援する気にはならない。身勝手だし。
ここらへんが、小説全般におどろおどろしい、いやあな雰囲気を醸し出すのだ。
でも、そこに横たわる人間の業、とか考えちゃうと、
もうページをめくる手はそれこそ止まらない。
イヤだけど見ちゃう、みたいな、感じ。
もう、桐野夏生の悪意に取り込まれまくってる自分がよくわかる。


一気読みし終えて、あーあ、とため息をつく。
面白かったけど、すごく疲れた。でも、また読んじゃうんだろな、という感覚。
つくづく、この作家の恐ろしさを、体験してしまったな、と。
お化け屋敷から出ても、ふと気配を感じて後ろを振り返ってしまう、
そんな余韻を残して、本を閉じた。
あと願うことはただひとつ。夢に出てこないでね。それだけだ。