宇江佐真理「憂き世店 松前藩士物語」

朝日新聞社刊です。



このところややご無沙汰だった時代もの、
力作「桜花を見た」でも舞台となった蝦夷松前の元藩士の妻を主人公とした、人情話だ。
オロシア襲来への対応をめぐり、梁川へ移封と小名降格の処分となった松前藩
鷹部屋席の相田総八郎も士籍を削られ、江戸での浪人生活を余儀なくされる。
江戸の総八郎からの便りもないまま、
梁川での苦しい生活を余儀なくされた妻、なみもあてどなく江戸へ。
再び巡り合った二人の、新しい生活が始まる…


杓子定規に書けば、町人の中に身を落とした、浪人の妻の切なさ、みたいな話だ。
何しろ、突然浪人となった夫は、ろくに連絡もよこさないし、
身を寄せた兄の家では、嫂(あによめ)のいじめに悩む。
ようやくたどり着いた江戸では、お金なしには暮らせない日々の重みに苦しむ。
だが、そこは人情あふれる江戸の町。いわゆる長屋暮らしの温かさに、救われていく。
長屋の長老?格のお米、近隣の商家の息子とん七をはじめとした、
総八郎、なみを取り巻く人々が、とにかく泣かせる。
もちろん、あの時代のことだから、切なく、哀しい事件も多いのだが、
それでも、どこかにぬくもりが感じられる。いやあ、味わい深い。


印象的だったのは、生活苦から、身ごもった総八郎の子を堕ろそうかと悩む「露草の悲」だ。
慣れない江戸の梅雨に気もふさぎがちな、なみはふと隣家の軒先に咲く露草に気付く。
初めて気付く、花の愛らしさに心打たれるなみ。
だが、総八郎は松前の家にも咲いていた、と振り返る。
侍の妻としての恵まれた暮らしの中では気付くこともなかった、小さな花に想いを馳せる。
「自然はすべてひとの気持ちを映す小道具である。空も雲も風も雨も
 せめて道端の名もない草花や、木々のさやぎに、
 つかの間でも気づく自分でありたいと思う。
 たとい、どれほど辛いことがあったとしても。」


深いなぁ、心に染みるなぁ、と思いつつ、はたと気づく。
恵まれている時に気づかないのは、何で?
確かに、こころも体もきつい時に何かにふと気づく、ってのもありだけど、
別に、ふだんでも気づけばいいじゃん、と思うのは乱暴過ぎるな…
せっかく美しい感じのお話だったのに、何となく疑問を感じてみたりしたのだが、
まあ、幸せになっても気づいてね、ということで、美しく考えることにする。


やはり強く感じたのは、武家の人間のお気楽さだ。
これだけ町人たちに世話になり、町人の暮らしの厳しさを味わいながら、
それでも想いは常に、松前藩の帰封と、藩への復帰、仕官だったりする。
その気持ちはわかるけど、武士の世の中への疑念とかわかないのかな、と。
小説の登場人物にぶつくさいってもしょうがないんだが…
ただ、そういう時代だしね、で片付けるには、やや気になる面もある。
これを現代におきかえて、愛社精神あふれる人間なんかと置き換えちゃうと、
途端にバカ臭くて、情けない話になってくる。
もっと何かないの、あなたの人生は? って感じで。


藩の帰封がかない、晴れて仕官をはたした総八郎が、3年ぶりの江戸に戻ると、
かつての長屋は取り壊され、人々は散り散りになっていた。
そこで、ようやく、総八郎は長屋暮らしの時代の温かさに気づく。
「あの場所に帰りたい。あの愛しい日々に戻りたい。
 そこで自分がどれほど幸福であったかに総八郎は気づいた」
早く気づけよ、ホントにって感じだ。まったく武士ってやつは…


その上、こんなに勝手な解釈までしてみたりする。
「総八郎の周りにいた人々は自分にとって何者だったのだろう。
 不遇をかこつ自分を慰めるために天が差し向けた使者だったのか」
武士のための世の中、という視点が、どうしても外せないのだ。
ここまでいくと、もう何もいうまい、のレベルかも。


ただ、そんな総八郎たちでも温かく見守る町人たちの美しさ、
は、そんな瑕疵を振り払って、深い余韻を残すのだから、
考えてみれば、それも味わいを深めるスパイスなのかもしれない。
全部が全部思い通りになる小説より、感動は深いかも。
そんなバランスのことなど、考えずに素直に読め、という気がするが、
まあ、そういう読み方もまた、いいんじゃないか、と勝手に納得する。
身勝手な考え方、総八郎と何ら変わらないかな、要反省…