近藤史恵「サクリファイス」
〝ただ、あの人を勝たせるために走る。それが、僕のすべてだ。〟
ツール・ド・フランスで有名な、自転車ロードレースを題材に、
「二人道成寺 (本格ミステリ・マスターズ)」の近藤史恵が描く青春ミステリ。
〝二転三転する〈真相〉、
リフレインし重きを増す主題、押し寄せる感動!〟
<エース>を勝たせるために、
<アシスト>がその身を犠牲にする。
冷酷なまでの役割分担で、勝利を追求する世界で、
突如起こった信じられない悲劇に隠された真相とは―
〝ぼく〟白石誓は、プロ自転車チーム、チーム・オッジ所属の若手選手。
紳士的で過酷な自転車ロードレースに憧れ、
将来を嘱望されていた陸上を振り切り、この世界に飛び込んだ。
勝利に貪欲なチームのエース、石尾のため、アシストに徹する白石だったが、
かつて起こったある事件の噂が、こころに迷いを生じさせる。
そんな折、飛び込んできたスペインのチームによるスカウト話。
そして、大事なレースにチーム・オッジに、恐ろしい悲劇が起こった―
ミステリ的な部分については、あまり多くを語るべきではないだろう。
だが、少なくともこれだけは言えるはずだ。
「ブラボー」な作品である、と。
序盤で語られる、小説の「テーマ」でもある、サクリファイス=犠牲・生け贄。
空気抵抗を避けるため、ライバル同士が先頭を分担し合う紳士のマナー、
時にエースの風防と化し、過酷なレースを強いられる厳しい役割分担…
自転車ロードレースという競技の、その特性を存分に描き出し、
そのドラマに酔わせておきながら、さらにそれをミステリのネタにも使う。
いや、絶妙としかいいようがない。
もちろん、主人公のキャラクターも絶妙だ。
6年前に去っていったかつての恋人、香乃への想いを捨て去れない白石。
あの頃のように、夢の中で「わたしのために勝って」と語りかける彼女。
〝もちろんさ、香乃。ぼくは心でそう答える。あのとき、六年前と同じように。
今まで何度、彼女のそのことばを思い出し、それに同じ返事で答えただろう。
だが、それは傷を掻き壊したり、
かさぶたを剥がしたりするような、軽い自傷行為のようなものだ。〟
白石には迷いもあった。
「わからないんだ。ゴールにいちばんに飛び込む意味が」
勝つことに喜び、誇りを感じられない。
〝自分の足で走っていたときもそうだった。
ただ走ることは好きだったけれど、ゴールは少しも輝いて見えなかった。
必死にゴールで飛び込むほかの選手は、きっとぼくと違うものを見ているのだと思った〟
だからこそ、単純な勝利の価値だけでは語りきれない、
この世界の価値、この世界で生きるものの矜持こそが白石には心地よかった。
そして、物語の終盤で語られるある言葉。
「勝利は、ひとりだけのものじゃないんだ」が、ズシンと響いてくる。
その言葉の意味を、もう一度かみしめたとき、深い感動がこころに沁みてくる。
読み終えて、しばらくはその興奮が醒めやらないほどの傑作に、
思わず感嘆のため息が漏れてしまうのだった。