シネリーブル梅田で「ツォツィ」
?拳銃を持つその手で、小さな命を拾った。?
2005年アカデミー賞外国語映画賞受賞作。
(2006年=今回は「善き人のためのソナタ」)。
アパルトヘイト撤廃後の南アフリカのスラムを舞台に、
幼い命とのふれ合いの中で、人間らしさに目覚めていく青年を描く。
主人公の名前ツォツィは、若年犯罪者やギャングを意味する俗語。
都市のスラム化や黒人間でも広がる経済的格差、エイズの蔓延など、
アパルトヘイトの後遺症に悩む南アフリカの現状を訴える社会派作品だ。
舞台は南アフリカ・ヨハネスブルク。
スラムに暮らし、無軌道な犯罪に手を染めるツォツィは、
電車内での強盗殺人をめぐり、仲間と小競り合いを起こす。
ひとりさまよううちに富裕者層居住地に迷い込んだツォツィは、
思いつくままに自動車を強奪、持ち主を銃撃し、そのまま逃走した。
だが、その車には、生まれて間もない赤ん坊が乗せられていた。
困惑しながら赤ん坊を連れ帰ったツォツィだが、そのこころにかすかな変化が―
凡作、である。
あわよくば南アフリカ版「シティ・オブ・ゴッド」と期待していたのだが、
方向性はともかく、クオリティ、パワーとも遙かに遠く、及ばない。
極悪非道のギャングが、無垢な魂と出会い… の設定は別にいい。
使い古された、といってもいいほどのプロットではあるが、そこは製作のしかた次第。
いかに南アフリカ、という舞台を生かし、感動なり、衝撃なりを伝えるか、にある。
だが、この作品には、そうした特別な何か、が決定的に欠けている。
描かれるのは、中途半端な悪人と中途半端な道徳心。
安い犯罪者が、安い犯罪の挙げ句、安い道徳心で、安い決着を図るだけだ。
何も考えずに女を撃ち、車を奪った犯人が、乗り捨てた車の中の赤ん坊に気づく。
泣き叫ぶ赤ん坊を捨て置けない、ということにもなるのだろうが、
赤ん坊の扱いをみれば、置いて行かれた方がはるかにましである。
手配だってかかっているし、警察が保護しているはずだ。
悪党のクセに、中途半端な真似をするのが、どうにも気に食わない。
そしてその後、行き当たりばったりの行動は最後まで続く。
贖いと赦しが描かれていることは承知だが、
こんなレベルの低い悪党には、そのどちらも必要ない。
人間らしいこころに目覚めていく、という展開も、
いかにも陳腐なやっつけ感が強く、まったく乗っていけない。
パンフレットに寄稿している五味太郎は、
そんな?深読みさせてくれる曖昧さ?を絶賛しているが、
そんな中途半端さまで深読みしていったら、世の中何でもアリじゃなかろうか。
ツォツィが贖いと赦しを得たようにも思えるラストなど、不愉快そのもの。
やつの取った行動がもたらした結果を考えれば、
どんな無残な最期を遂げても、何ら同情の余地はないにもかかわらず、だ。
まるで、被害者の人権を無視して、加害者の人権を高らかに謳う、
人権派弁護士の戯れ言としか思えないような、不快感を催すのだ。
アパルトヘイト撤廃後の南アフリカが抱える、
さまざまな社会的問題については、グッと迫る場面も多い。
これまで(アフリカの人以外)誰も気にもしなかった部分を取り上げた部分が、
各方面で評価されたんじゃないかとは思うのだが、
これなら、普通にドキュメンタリーにした方が、よほど観る者のこころに届くはずだ。
画期的なのは、アフリカという舞台だけで、こと映画作品としては失敗作に過ぎない。
消化不良を起こしそうな、切れ味の悪いメッセージに、気分はげんなりとなってしまった。