シネリーブル梅田で「ママの遺したラヴソング」
〝新しい出会い、新しい生活。私は、ゆっくりと歩き出す〟
ロナルド・エヴェレット・キャップスによる同名原作、
「ママの遺したラヴソング」にほれ込んだシェイニー・ゲイベルが、
自ら脚本化、4年の歳月を経て初監督作として送り出した労作。
主演に「パルプ・フィクション」のジョン・トラヴォルタと、
「ロスト・イン・トランスレーション」、「真珠の耳飾りの少女」のスカーレット・ヨハンソン。
長年音信不通だった母、ロレーンの訃報を受け、ニューオーリンズの母の家を訪れたパーシー。
だが、その家には自堕落に暮らす、見知らぬアル中の男2人が住み着いていた。
母の友人でもあった2人は、大学の元教授のボビー・ロングと、その元教え子で作家のローソン。
遺言では、家はその2人とパーシーに遺されていた。
2人に反発を覚え、一度は家を後にしたパーシーだが、
母が遺した本を手に取るうちに、知ることがなかった母の人生に興味を持つ。
奇妙な共同生活を始めたパーシーとボビー・ロング、ローソンだったが、
いつしかその孤独で傷ついた魂は、家族のように惹かれ合っていくのだった―
このところ「デジャヴ」に「オール・ザ・キングス・メン」と、
ニューオーリンズを舞台にした映画の日本公開が続いているが、
どちらも撮影はハリケーン・カトリーナ以後の作品だった。
しかし、この作品の撮影はハリケーン以前。
昔ながらのフレンチ・クオーターを始めとする、のどかで賑やかなニューオーリンズの光景が印象的だ。
トラヴォルタ演じるボビー・ロングが、酒瓶を片手に、とぼとぼと墓地に向かう冒頭の場面。
フレンチ・クオーターだけではない、ニューオーリンズの街並みが次々と映し出される。
その目に鮮やかな眩しい映像だけで、いきなり物語世界に引きずり込まれる感がある。
もちろん、ニューオーリンズの夏の澱んだ暑さたるや、ある種の苦痛にも等しいし、
貧困地域もそこら中にある。何もかもがバラ色の土地だというつもりはない。
だが、それも込みで、撮影監督のエリオット・デイヴィスは、
ニューオーリンズの街を美しく、そして魅力的に描き出す。
アラン・ルドルフやスティーヴン・ソダーバーグ作品を手がけてきたエリオットだけに、
その文学的な映像は、思わずうなってしまいそうな、輝きにも満ちている。
そんなニューオーリンズを舞台に、魅力あふれる主人公を演じるのが、トラヴォルタとヨハンソン。
脚本の甘さがやや気になるこの作品だが、この絶妙なキャスティングがその弱点をカバーしている。
過去を引きずり、だらけた毎日を送るアル中の老人ボビー・ロング。
かつてはアラバマ州オーバーンの大学で名声を得ていた文学部教授。
モリエールやT・S・エリオット、ロバート・フロストを次々と引用する才人。
甘いマスクと耳をくすぐる甘い歌声、そしてチャーミングな人柄の一方で、
精神的な不安定さも目立つ、自由気ままで破綻した人物。
心の傷をさらけ出し、周囲に当たり散らすこともあるそんな複雑な人物に、
トラヴォルタの類い希なる魅力が、うまいことハマり、作品そのものの破綻を防ぐ。
そのボビー・ロングに、「レッドネック・リヴィエラ」と貶された、
フロリダ州パナマシティで、これまた未来のない生活をつづける18歳のパーシー。
黄金の花を咲かせるパースレーン(スベルヒユ)を名の由来に持ちながら、
学校にも行かず、ろくでなしとトレーラーで暮らすパーシーが、
ボビー・ロングたちとの出会いで徐々に変わっていく様は、グッとくるドラマに仕立て上げられている。
パーシーの最初のすれっからしぶりは、ヨハンソンの真骨頂という感じでなかなかにいい。
自慢の巨乳をやたらと強調するのには参るのだが(あの鳩胸巨乳はちょっと…)、
うまくキャラクターにハマり、さらにその魅力を膨らませているような印象だ。
さすが、若手屈指の演技派、と納得の演技ぶりなのである。
ストーリーの大きなカギとなるのは、カーソン・マッカラーズ「こころは孤独な狩人」。
恥ずかしながら読んだことがないもので、いまひとつ入っていけない面はあるのだが、
あらすじだけでも読んでみると、なるほど、孤独な魂に食い込んでいくる理由はよくわかる。
どうも入手困難らしいが、いつか読んでみたいな、と思う次第でもある。
作品そのものとしては、前述の通り、甘さもだいぶ残る。
独特ののんびりしたリズムで進むのは、味わい深くもあるが、
作品のテンポの緩急が、必ずしも適当でないんじゃないか、と思う部分も。
どこか駆け足すぎる部分もあれば、不必要にたっぷりと描かれる部分もある。
俳優の名演に助けられているが、セリフがどこか陳腐に聞こえる場面も散見する。
ただ、そんな弱点を踏まえても、やはり観終わっての余韻はかなり悪くない。
忘れ難い、まではいかないが、どこか記憶に残りそうな作品なのである。