テアトル梅田で「キング 罪の王」

mike-cat2006-11-26



〝懺悔しよう、愛のために。〟
アモーレス・ペロス」「天国の口、終わりの楽園。」
ガエル・ガルシア・ベルナル主演のスキャンダラスな問題作。
「チョコレート」のミロ・アディカが手がけた脚本は、
オイディプス王」「カインとアベル」の要素を盛り込んだ、禁断の愛を描く。


海軍を退役したエルビス=ベルナルがバスに揺られ、向かった先はテキサスだった。
田舎町コープス・クリスティに、まだ見ぬ父、デヴィッドを訪ねたエルビス
だが、いまは地元の説教師として家庭も持った父は、
初めて会った息子を、すげなく追い払い、「家族に近づくな」と言い放つのだった。
だが、エルビスは真実を隠したまま、16歳の異母妹マレリーに接近する。
禁断の領域に踏み込んでしまったふたりの愛は、周囲を巻き込んで暴走していく−


事実関係だけを並べると、エルビスの行動は復讐にも映る。
だが、スクリーンに映し出されるエルビスの姿からは、そんな感情は伝わってこない。
そこにあるのは、自分の感情と都合にだけ、冷酷なまでに忠実な生き様。
天使の仮面を被った、満たされない悪魔が、
感情と欲情の赴くままに行動した、その果てを描いた愚かしいほど悲しい物語だ。
衝撃的で救いのないラストまで疾走するその展開には、
あ然としつつも目を離せない、魅力とパワーが詰まっている。


そんなパワーの原動力となっているのは、もちろんガエル・ガルシア・ベルナルだ。
あの大傑作「アモーレス・ペロス」に始まり、
常に観るものを魅了し続けるその存在感は、この作品でも眩い輝きを見せる。
悪意をどこにも感じさせない、その無邪気なまでの身勝手さには、
怒りや恐怖を覚えるどころか、むしろ魅せられていってしまう、不思議な引力が宿る。
行動だけを見れば、単なる社会病質者に過ぎないのだが、
あの潤んだ瞳のフィルターを通すと、それはなぜか謎めいた気まぐれとなる。
兄嫁を恋い慕った「アモーレス・ペロス」に続き、
今回は異母妹を誘惑し、その上…、ということになるが、それでもどこか憎めないのだ。


そんなエルビスに崩壊させられていくのが、
「蜘蛛女のキス」「スモーク」の名優ウィリアム・ハートであり、
マルホランド・ドライブ」のブルネット美女、
ローラ・ハリング(当時ローラ・エレナ・ハリング)のサンダウ夫妻。
保守的な田舎町で説教師夫妻が、次第に崩壊していく様が何とも恐ろしい。
退廃美ともいえる佇まいを感じさせる、ハリングのやつれた美しさも印象的だ。


そして、この作品のもうひとつの収穫が、マレリーを演じるペル・ジョームズ。
ビル・マーレイの「ブロークン・フラワーズ」で花屋を演じた27歳だが、
16歳という設定がまったく不自然ではない、見事な演技を見せる。
それはもちろん、幼いイメージの残る肢体の影響もあるのだが、
独特の〝いけない〟フェロモンを醸し出し、観るものを禁忌の感情に誘う。
そして、その壊れていく中でかいま見せる、
強さと脆さが同居した危うさがひたすら美しい光を放つのだ。


作品の中に潜んだ、さまざまな原典だけでなく、
キリストの死体、キリストの生きた証を意味するコープス・クリスティや、
〝キング〟を意味するエルビス、デヴィッド(ダビデ)など、
キリスト教の原罪を意識させる部分はかなり多い。
生首ごと皮を剥がれる鹿や、マレリーのトイレの場面、
殺された少年の哀れなブリーフ姿など、妙にリアルな描写も印象深い。
黒猫に黒犬など、どこからが何のメタファーであるのか考え始めるときりがないが、
その目に映ってくるものだけでも、こころの中にぐいぐい突き刺さるものばかりだ。


あっけにとられるような展開から、複雑な余韻を残すラストで、思わずハッとする。
どう受け止めたらいいのか、正直よくわからない。
エルビスの犯した罪は、果たして断罪されるべきなのか、どうしても判断できない。
おちゃらけてまとめてしまうと〝エルビスが何も考えていないだけ〟という、
そのまんま身もふたもない結論もありなのだが、それはあんまりな言い草だろう。
まあ、ある意味、観たものの心を映す鏡のような作品だから、
単に僕が何も考えていないだけ、という結論でもあるのだが…
それはともかく、何はともあれ印象深い、曖昧で複雑な余韻を残す問題作。
すっきりとした何かは得られそうもないが、だからこそ魅力にあふれた作品でもあると思う。