梅田ナビオTOHOプレックスで「嫌われ松子の一生」

mike-cat2006-06-13



〝松子。人生を100%生きた女。〟
映画秘宝」で絶賛の、
ことしの邦画ナンバー1候補。
ちょっと遅くなったが、ようやく観に行く。


荒川の河川敷で見つかった、
中年女性の変死体。
川尻松子、53歳。
昭和22年、福岡県大野島に生まれ、
愛と幸せを夢見た少女がたどった
悲劇、転落の人生を描いたミュージカル。


で、遅くなった理由、だ。説明するのもまあ変なんだが…
あの「下妻物語」の中島哲也監督ということだし、
予告の感じも悪くなかったので、気にはなっていたが、
どうにも引っかかっていた点があったのだ。


たぶん、こう言うと違和感を覚える人も多いのだろうが、主演、である。
実は、中谷美紀って、あまり好きではない。というより、嫌いな女優だったのだ。
一般的な感覚としては、いわゆる〝きれい系女優〟というポジションだろうか。
だが、どうも微妙にクセのないあの顔、どうにももの足りないのだ。
加えて、臭ってくるほどの「わたし、きれいでしょ」光線。
もちろん、女優にはそういう要素も必要だが、
中谷美紀の場合はどこか方向性のズレたナルシズムを感じてしまっていたのだ。
だから、個人的なイメージとしては、
演技のできる〝女優〟ではなく〝自己愛過剰のアイドル崩れ〟だった。


だが、この映画を観て、意識が変わった。
中谷美紀、いいかも知れない。
多少、柴咲コウの演技とダブる部分もあるのだが、演技は悪くない。
立派に女優してる、といっていいほど、表情、雰囲気、セリフ回しがハマっていた。
これなら、素直に「失礼いたしました」と、〝「松子」前〟の中谷美紀に謝れる。


負け惜しみを言うと、中島監督の手腕、によるところも大きいとは思う。
演技指導は、かなりすさまじかったと聞いている。
何でも「気持ち悪い」「降ろしてやる」との罵詈雑言を投げかけたとか。
かわぐちかいじの傑作漫画「アクター」での、
夢野萬作監督×菊池英子の〝対決〟をも想起させる。
中谷美紀が、毎日つづった、監督への恨みつらみは、本にもなった。
「嫌われ哲也の一年」にしようかと思ったという「嫌われ松子の一年」。
こういう〝イジり〟が必ずしも有効ではないだろうが、
この作品においては、中谷美紀を〝川尻松子〟にまで追い込んだ、絶妙の策となったようだ。


柄本明演じる父の愛情に餓え、生涯愛と幸せを渇望した、松子の切なさ、
そして、愛を求めつづけながらもどうしても間違った方向に進んでしまう哀しさ、
こうした悲劇的な要素を情感たっぷりに、しかもコミカルに演じきる。
言葉で書けば簡単だが、ただただ陰惨にもなりえるストーリーを、
哀切とコミカルの絶妙なバランスの間で成立させる、というのは、かなり難しい。
加えて、歌と踊りも文句なしのレベル、とくれば、一世一代の演技、といってもいいだろう。


もちろん、その松子の人生を彩るドラマそのものも秀逸だ。
病弱な妹を偏愛する父がもたらした、
過剰なまでに愛を求め、当て所のない愛に彷徨う松子のルーツから、
ここ一番での動物的反応と、見当違いの状況判断、
そしてオトコ選びに際しての、あまりにも不確かな選択眼…
転落するべくして転落し、「人生が終わったと思った」とつぶやきつつも、
不死鳥のごとく甦って、再び過ちを犯してしまう、松子の哀しき業。
「なんで?」「なんで?」。自爆を繰り返しても、
何が理由で「愛を、幸せを、つかめないのか」がわからない松子。
故郷の筑後川を思い出しながら、荒川を眺めるその姿は、思わず涙を誘う。


まだ見ぬ伯母、松子の人生を追いかける、笙=瑛太もいい。
狂言回しとしての役柄もさることながら、
恋人役の柴咲コウとの絡みを入れることで、松子との対比も持ち込まれ、
笙の人生観に大きな影響を与えていく部分も、多層的に描かれていく。
果たして、松子の人生は何だったのか。
53年の生涯を通じて、松子が最後にたどり着いた、こころの境地はどんなものだったのか。
単純に幸福・不幸の二者択一で括りきれない、何かが描かれていく。


さらに、ミュージカルに不可欠な要素、音楽もなかなかだ。
テーマソングの BONNIE PINK〝LOVE IS BUBBLE〟だけでなく、
幼い松子が歌い上げる「まげてのばして」、
繰り返し挿入される〝Feeling Good〟 、インストゥルメンタルの〝But Not For Me〟…
どれもが、その場面場面の感情レベルを増幅し、こころに響いてくる音楽ばかりだ。
CGも序盤は多少チャカチャカが気になるが、
ドラマが盛り上がるにつれ、多少の特殊効果も、ドラマとのバランスが取れていく。
この点に関しても「下妻物語」を凌駕する、〝意味のある〟特殊効果となっている。
場面場面で挿入される、ユリ・ゲラーや長嶋引退、
小渕&「平成」、光GENJIなどのフッテージや、「トルコ譲」の表現などなど、
〝松子が生きた〟時代を感じさせる描写も絶妙で、これまた思わず唸ってしまうのである。


惜しいのは終盤の冗長さだろうか。
〝光GENJI〟の部分はなかなか秀逸なアイデアと思うが、
そこから松子の最期まで、をもう少し切る勇気があれば、とは思う。
もちろん、製作側の思い入れもさることながら、
観る側の、松子への思い入れを重視し、より力を入れて描写したのかとは思うが、
やはり映画としてのテンポを考えると、もう少しすっきりさせていれば、と感じてしまった。


また、日本映画によくある、必要以上の〝豪華〟キャストも考えものだ。
ドラマの本筋や、松子の人格・感情描写にさほど関係のない、
テレビタレント総登場は、はっきりいって物語世界を破壊する、異分子でしかない。
いや、劇中劇の「サスペンス劇場」で本人役として登場する片平なぎさは最高だと思う。
劇団ひとり宮藤官九郎あたりまでは、
ドラマを阻害する要素とまでは、ぎりぎりで言わないでおく。


だが、ゴリ(いや、面白かったんだけどね)だとか、
カンニング竹山山田花子らのお笑い芸人あたりが登場すると、
何だかバラエティ番組のコントを思い起こさせるし、
木村カエラ、AI、阿井莉沙あたりがミュージック・クリップよろしく出てくると、何だか鼻白む。
一方では、嶋田久作やあき竹城あたりになると、
これはこれで強烈すぎて、ほかの役者の存在感が一気になくなってしまう。
もちろん、バラエティを想起するのは、
そんなの普段見ている僕の責任でもあるのだけれど、
何もこれだけ作り込んだ映画にわざわざ、
ドラマスペシャル、コントスペシャルの安いレベルの雰囲気を持ち込む必要はないはずだ。


もちろん、この映画が傑作であることに異論を唱える気はないが、
この部分がクリアされていれば、
洋画も含めて年に屈指の作品だったはず、と思うと、苦言を呈さずにはいられない。
率直にいって、気分は「せっかく…」だったのだ。
とはいえ、と書くと二重否定になってしまうのだが、面白いことは間違いない。
観るべきか、と訊かれれば、迷うことなく観るべき、とお勧めできる作品だ。


ちなみに、この映画で原作に興味を覚える方も多いだろう。
僕もその例に漏れないんだが、
何でも、この映画のイメージで原作「嫌われ松子の一生」を読む、
もしくはその逆で、原作のイメージで映画を観ると、かなりのギャップに愕然とするらしい。
原作はどうも、かなり陰惨、陰鬱で、松子の自爆ぶりが強調されているとか。
そう聞くと、ちょっとどうしようかな、という感じでもある。
果たして、実際はどうなのか。
でも、原作を読む前に、もう1回劇場に観に行ってもいいかもしれない。