道頓堀東映パラスで「Vフォー・ヴェンデッタ」

mike-cat2006-04-26



マトリックス」のクリエイター最新作!
製作・ジョエル・シルヴァー
製作&脚本・ウォシャウスキー兄弟による近未来SFだ。
監督には「マトリックス」シリーズで助監督を務めた、
ジェームズ・マクティーグが初のメガホンを握る。
「バウンド」「マトリックス」のスタイリッシュな映像が甦るのか、
それとも「レボリューションズ」の失望が繰り返されるのか…
期待と不安をない交ぜにしつつ、劇場へ向かう。


舞台は第三次世界大戦後の英国。
かつて栄華を誇った米国をも植民地化した大英帝国だが、
その実態は、アダム・サトラー議長による独裁・圧制だった。
盗聴や密告による監視の下、思想や言論は検閲・統制され、
メディアも骨抜き、人々は文字通り〝支配〟されていた。
ある夜、戒厳令を破ったイヴィ=ナタリー・ポートマンは、自警団に囲まれる。
ならず者集団にレイプされかけたイヴィを救ったのは、謎の仮面の男。
〝VENDETTA(血の復讐)の「V」〟を名乗るその男が、
チャイコフスキーの序曲「1812年」を奏でる時、何かが起こる−。


率直な感想としては「もっと、バカ映画かと思ってた」という感じだろうか。
けっこうまとも、というか、なかなかメッセージ性も強い、意欲作である。
もちろん、芝居がかった作りは、コミックの世界そのものだし、
「所詮、アクション映画」という冷たい視線でとらえれば、
そこに展開される世界観は、単純明快という評価もできなくはない。
だが、かつてのナチス・ドイツ全体主義や、旧ソ連の収容所社会、
そして、ブッシュ大統領のもと、暴走を続ける米国を思わせる政府と、
それに対し、テロリズムという手法で挑む〝V〟の対決は、
9・11以後に戸惑う世界に対し、ひとつの答えを示してくる。


もちろん、テロリズム賛歌ではないし、
〝復讐の鬼〟たる〝V〟の存在も、モンスターと人間の間を揺れる。
政府を恐れる人民に〝蜂起しろ〟と伝える部分は、
映画の冒頭から変化はないのだが、その内容には微妙な変化が現れる。
ナポレオン侵攻に対する、ロシアの反攻をモチーフにした「1812年」を用いたり、
巌窟王モンテ・クリスト伯フッテージなどが織り込まれるが、
圧政に屈しない強さと、復讐がもたらした結果に対する苦悩など、
〝V〟を単なるテロリスト(〝単なるテロリスト〟なんて本来いないが…)に終わらせない、
製作側のこだわりなんかもジンジンと伝わってくる。

グッときたセリフがある。
公安のボス、クリーディーとの対決場面。
数え切れないほどの、銃弾を受けても倒れない〝V〟が見えを切る。
〝Beneath this mask there is more than flesh.
 Beneath this mask there is an idea,
 Mr. Creedy, and ideas are bulletproof.〟
「仮面の下にあるのは、肉体以上のものだ。
 仮面の下にあるのは、信念。Mr.クリーディー、信念とは防弾なのだよ」
実際の字幕では、「正義は銃弾では倒せない」だったと思うが、
絵空事とわかっていても、思わず胸が熱くなってしまった。


政府の圧政について語る〝V〟の言葉も、記憶に強く残る。
〝Fear became the ultimate tool of this government.〟
「恐怖こそ、政府にとって、究極のツールである」
恐怖によって思想を統制する社会は、すぐそこまで来ているかもしれない。
作品では「国家忠誠法」なる法律のもと、公安警察が強権的な管理・統制を進める。
そういえば、どこぞやの国では、教育指導要領に〝愛国〟の項目がつけ加えられたり、
アメリカでは盗聴が国家安全保障局(NSA)に盗聴を指示したり…
「愛国」だの、「国家への忠誠」だのは決して、
政府の主導で、政府の望む形に向けて、うながされるものではないし、
公安警察の権限強化は、間違いなく過剰な思想統制につながっていく。
作品中で政府が用いる、巧妙な手法なども、
現実世界で十分通用しそうで、胸の中に寒々しい思いもよぎっていく。


エンディングでの、イヴィの言葉も印象深かった。
フィンチ警視がイヴィに尋ねる。「彼は誰だったんだ?」
〝 He was Edmond Dantés...and he was my father. And my mother...my brother...my friend. He was you...and me. He was all of us.〟
「彼はわたしの父であり、母であり、兄弟であり、友人でもあった。
 また、彼はあなたであり、私でもあった。そして、彼はわれわれすべてもあった」
反政府活動に身を投じ、生命を失った両親だけでなく、
政府に対して対峙していく、自分たちすべてを〝V〟に投影していくのだ。


アクション場面だけはやたらとスタイリッシュだった「マトリックス・リローデッド」や、
「バウンド」「マトリックス」と比べ、ビジュアルでの派手さでは、やや落ちる。
アクション場面そのものも、やたらと少ないし、
〝V〟の仮面も「率直なトコ、どうなのよ」感は微妙に残る。
だが、地味は地味なりにこだわりみたいなのは感じられて、好感が持てる。


そして俳優陣だ。言い遅れた(書き遅れた)が、これもいい。
ヒロインのナタリー・ポートマン以外は、いわゆる英国系でまとめている。
ヒューゴ・〝エージェント・スミス〟ウィービング(豪州だが)は、
あの独特の顔こそ見せることはないが、
その声だけで、〝V〟に圧倒的な存在感を与えている。
気骨の捜査官、フィンチ警視を演じたスティーヴン・レイ(「クライング・ゲーム」)も、
その冴えない風貌と、圧力に負けない執念の捜査が、強烈な印象を残す。
風刺で政府に立ち向かうゴードンも、スティーヴン・フライ(「ピーターズ・フレンズ」)が好演し、
これまた〝V〟とは違う戦いの場を選んだ男の姿が描かれていく。
アダム・サトラー議長を演じたジョン・ハートも、
円熟の演技で非道であさましい独裁者の姿を、恐怖感たっぷりに描き出していく。
もちろん、ポートマンも途中で出てくる〝ロリータ衣装〟には驚かされたが、
あの「レオン」に次ぐ、代表作のひとつとなりそうな熱演を見せている。


文句なしの傑作、とまではいうつもりはない。
あの「マトリックス」を観終えた時のシビれた感覚には遠く及ばない。
だが、エンドクレジットが終わっても、胸には熱いものが残る映画ではある。
ウォシャウスキー兄弟、まだ健在(といっても脚本だが…)だな、と、
ちょっとうれしい気持ちを胸に、道頓堀の喧噪の中に舞い戻ったのだった。