道頓堀松竹角座で「ミュンヘン」
テロリズムと、その報復で世界が揺れた9/11以後−
スピルバーグが満を持して送る、平和の叫びである。
ユダヤ系でありながら、イスラエルの反テロ政策にも批判の目を向けた、
冒険的な作品であり、イスラエルから猛反発を受けたとという。
そして、「プライベート・ライアン」以来となる、リアルな殺戮が描写される。
まあ、いろいろな意味で〝話題〟の作品だ。
題材を考えると、かなり不謹慎な言葉ではあるが、〝期待〟して臨む。
1972年、ミュンヘン五輪で悲劇が起こった。
イスラエルでのアラブ政治犯解放を要求する、
パレスチナ武装集団「黒い九月」が選手村に侵入、
イスラエル人選手11人が人質となり、最後は殺害された。
だが、国際社会は無理解、そして無関心のまま。
報復を誓ったイスラエルの諜報機関モサドは、
非公式のエージェントを募り、パレスチナ人の幹部暗殺を謀る。
リーダーに指名されたアヴナー=エリック・バナは、
愛する祖国と家族のため、その任務に手を染める。
試行錯誤を繰り返しながらも、次々と標的を仕留めるアヴナー。
だが、その任務の果ての代償は、決して少なくはなかった−。
語るべき部分がやたらと多い映画ではある。
たぶん、語り出したらきりがないので、いくつかに絞って書く。
そのくらい、圧倒的でもあり、考えさせられる映画だ。
まず語るべきは何よりも、平和の叫び、の部分だろう。
スピルバーグは作品の中で、
モサドの工作員アヴナーに、テロへの報復が何も生み出さないことを悟らせる。
テロリズムと、それに対する報復は、決して平和にはつながらない。
むしろ、報復は新たな暴力を生み出すだけで、
暴力と憎悪の連鎖は、決して断ち切れないし、それは自らの身にはね返ってくる、と。
非常に真っ当な意見である。
というか、真っ当すぎる。これを普通に語るだけでは、
非常にチャイルディッシュな主張となるし、何の説得力もない。
じゃあ、何でそんな暴力が起こるのか、暴力に曝されたとき、どうするのか、
愛する人が暴力によって傷つけられたとき、どうすればいいのか…
そんな、単純には割り切れない問題を視野に入れてこそ、語るべき話題だ。
作品のモチーフとなるのはパレスチナ問題だ。
だが、その問題はシオニストvsアラブの図式だけでは、ほんの一部分しか説明できない。
この両者は、二つの大戦、そして冷戦構造などの中での、
国際社会のさまざまな思惑や、利害の対立の中で、しわよせを受けた被害者同士でもある。
イスラエル建国、パレスチナの難民問題、ミュンヘンの悲劇…
どれもが単独では語ることのできない、歴史と経緯の産物でもある。
そうした中で生まれた暴力と憎悪を、単純な倫理観ではとても裁けない。
テロリズムも、その報復も肯定をする気はない。
だが、愛する者が理不尽な暴力によって(理不尽じゃない暴力はないが…)奪われ、
しかも、、誰もがその悲劇に無関心で、裁きが正当に行われなかったとしたら…
「テロはいけません」。そのひと言だけで、問題に終止符を打てるのか。
おそらく、西欧社会の人間から、テロという言葉で片付けられている行為も、
アラブの側の人間にとってみれば、実は報復であったりすることもある。
それも「報復はいけません」。そのひとことで片付けられるか。
目には目を、歯には歯を、のイスラム教はもちろん、
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すはずのキリスト教ですら、
誰もが、自らの手で正当な裁きを行おうとする(行いたいと思う)はずだ。
それは、多くの映画や物語で〝正義の裁き〟が行われ、
その正義に、多くのファンが喝采を浴びせていることでも証明できる。
そう考えていくと、いつまで経っても答えのでない議論でしかない。
じゃあ、そういうやたらと難しい議論を内包する中で、
スピルバーグはどう平和を訴えたのか、ということになる。
スピルバーグの論点はまず(たぶん)、大義であろうと、報復であろうと、
暴力は暴力に過ぎないし、殺戮は殺戮に過ぎない、という部分だ。
それは、あっけないほどリアルで残虐な暴力描写にある。
「プライベート・ライアン」での、ノルマンディー上陸でもそうだったが、
スピルバーグの描く暴力は、圧倒的にリアルだ。
ナチス打破への輝かしき第一歩も、
ひたすら無策に銃弾にさらされる名もない兵士たちにとっては、ただ無為な死でしかない。
銃弾に倒れた、とかいう表現ではもの足りない。
ただただ、銃弾に肉をえぐられ、骨を砕かれる。そこにあるのはただただリアルな死である。
(まあ、僕は実際に戦争も人殺しも見たことがないから、リアルに映る、でしかないが)
この映画においても、スピルバーグは死を決して美化しない。
イスラム教徒によるジハードによる死も、ユダヤ人によるやむを得ない報復も、
ある意味等しく人殺しである、という視点で、リアルに〝殺し〟として描く。
美しい死などないし、後味は悪い。思わず目を背けたくなるような、暴力そのものだ。
(殺しのライセンスを持ち、華麗に悪を討つ、
次期007のダニエル・クレイグが出ているのが、けっこう皮肉だが…)
それぞれの立場も理解したいし、歴史的経緯もわきまえるつもり、
それでも、どんな大義があろうが暴力は暴力、そのことだけは覚えておいて欲しい、
そんなメッセージが、画面を通じて、ひしひしと伝わってくるのだ。
スピルバーグ作品の撮影監督ヤヌス・カミンスキーの手腕も、
そのメッセージをよりクリアに伝える大きな要素となっている。
ざらざらと粗く、乾いた映像は、暴力、そして死を無機質に描き出す。
その無機質で残忍な映像は「スターシップ・トルゥーパーズ」にも通じる。
誇張もしないが、隠し立てもしない、ただただリアルな死である。
そして、もうひとつの主張は最後のシーンに象徴される。
任務に疑問を覚えたアヴナーが、モサドのケースオフィサーと、議論を繰り広げる。
何のための殺人だったのか、自分は一体何をしたのか−。
納得する答えは当然得られない。疑念は膨らむばかりだ。
そして一通りの議論を終え、ユダヤ教の精神にしたがって(だと思う)、
遠来の客をもてなそうとするアヴナーに、ケースオフィサーはきっぱりと断りを入れる。
つまり、国家はアヴナーとユダヤ人としての絆を築く気はない。
アヴナーは利用されるだけ利用され、切り捨てられただけ、ということがわかる。
国家とは取引しない。国家を信用するな。
作品中で、フランスの情報屋が再三にわたって強調する主張だ。
国家は大義を掲げる、祖国のために、と国民を駆り立てる。
だが、そこには決して大義などない。
それどころか、国家そのものすら、実体を持たないシロモノだ。
そこにいるのは国家、祖国の名を借りた誰か。それで何かを得る誰かだ。
祖国のため、家族のため、
任務を果たしたはずのアヴナーが得るのは、尽きることのない不安と哀しみだけだ。
祖国を守ったはずが、自分は殺戮集団の手先でしかなかった。
家族を守ったはずが、家族は常に危険にさらされる状態になった。
だが、国家は何もしてくれない。これが国家の正体だ。
この構図、イラクに派兵された米兵たちにも、姿がダブる。
「自由を守るため」戦場に出向いた兵士たちは、
軍需産業の手先たるブッシュに利用されるだけ利用されて、捨てられる。
そういえば、日本でも60年ぐらい前にそういうことがあったはずだ。
つくづく、国家など信用するな、ということ。
それをスピルバーグは、作品を通じて、説き続けるのだ。
もちろん、最終的にすべての「答え」は出ない。
スピルバーグの主張は、あくまで限定的な問題に限られている。
だが、それは理想論に終始した単純な主張ではない。
たとえば、この2つの主張をもう一度考えてみるだけでも、
何かにつながる可能性はあるのではないか、と思わされる。
少なくとも、再考のきっかけにはできるだけのレベルの主張になっているはずだ。
と、これ以上熱を込めて語ってもきりがないので、作品そのもののこと。
まずは出演陣。
主演のエリック・バナ(「ハルク」)はもちろんのこと、
ダニエル・クレイグ、マチュー・カソヴィッツ(「アメリ」)に、
キアラン・ハインズ(「ロード・トゥ・パーディション」)ら、工作員のキャストは見事だ。
そして、ケースオフィサー役のジェフリー・ラッシュのヤなヤツっぷりったらもう…
使命に燃え、任務に疲弊し、疑念に苦しむ姿を、抑えた演技でリアルに描く。
映像については、前述の通り。
脚本も、たくみな強弱をつけながら、2時間44分の長尺をたるみなく一気に見せてくれる。
〝エンタテイメント〟としての構成も、十分すぎるほどのレベルに達している。
それだけでも、観て損はない、と言っていいはずだ。
個人的にはあの名作「シンドラーのリスト」に匹敵する、
いや、内包するテーマの複雑さを考えれば、「シンドラー〜」を凌駕する作品。
誰もが思わず、原作本や関連本を読みあさりたくなるくらい、刺激を受けるはずだ。
(とかいって読まないかもしれないが…)
「宇宙戦争」とかでは散々だったスピルバーグだが、
やっぱりこういう題材で撮らせると、本当にすごいな、と感心する。
重厚長大ばかりが価値ある映画ではないが、これは間違いなくキテる作品だ。
で、ちなみに町山智浩氏のブログが、相変わらず面白い。
映画のパンフレットをはるかに凌駕する、詳細で興味深い話が紹介されているので、
映画を観る前、観た後、どっちでもいいから、ぜひにご一読を。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20051203
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20051206
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060125