戸梶圭太「未確認家族 (新潮文庫)」

mike-cat2005-10-05



駒江知弘は、東京の郊外に暮らす会社員。
数年に一度、ブチギレの発作を起こす、いわゆるアブナイ男。
妻も子もありながら、痴漢に女遊びに、日々余念がない。
その妻、駒江美穂は、元ヤンキー。いまは普通の主婦然としているが、
過去には援助交際などなど、知弘の知らない秘密でいっぱい。
大枝浩子は、いわゆる電波系のデブオタク女。
知弘をストーカーし、妻美穂の抹殺をたくらむなど、妄想全開。
三木和也は元殺人犯。
かつてのヤンキー仲間の美穂らに陥れられ、服役生活を余儀なくされた。
美穂らの復讐にすべてを捧げる、危険な男。
こんな最低最悪の奴らの人生が交わったとき、事態は最悪の展開に転がっていく。


オビがとにかくとんでもないことになっている。
「こいつらに〝心の闇〟などない。ただ、馬鹿なだけだ」
いかにも、週刊新潮新潮文庫だけのことはある。バッサリといってしまう。
いわゆる、〝こういう連中〟にも、それなりの事情がある、という
人権派的発想(このテの人たちは被害者の人権には興味ないようだが)は、斬り捨てる。
こども時代の虐待が…、社会の歪みが…、を理由に世を拗ね、
犯罪を犯す連中を「馬鹿だから」で斬り捨てるだけでは、
犯罪防止の対策にならないのも確かだが、一面で真実を突いているのも確かだろう。
絶対的な社会病質者は存在するし、そいつらに理由などないのだ。
ただ、「やりたかったから」「ムカついたから」という、とても低いハードルで一線を越える。
その連中の〝心の闇〟を分析することの、バカバカしさを嗤う。そんな小説でもあるのだ。


行動の理由は常に衝動レベル、都合が悪ければすべてをその場限りの嘘で塗り固め、
追いつめられると逆ギレして開き直る。相手が子どもであっても、自分の事情に従わせる。
やはり小説は小説なので、デフォルメされてはいるのだが、何のことはない。
行動原理を個条書きにしてみれば、世の中にいくらでもいる、安い連中なのである。
パチンコ屋に行くため、炎天下の自動車の中に子どもを置き去りにする。
子どもがうるさいので、食事も与えず、虐待の限りを尽くす。
こんな陰惨なニュースも、衝撃度だけで見れば、さほどたいしたことはない。
そんなレベルのニュースは、ごろごろと転がっているからだ。


通常、そういう連中を描くとき、作家はその〝こころの闇〟に焦点を当てる。
だが、戸梶圭太はそんなことはしない。
衝動のまま、欲望のままに行動する〝連中〟の単純な思考を、淡々とつづる。
もちろん、そのとんでもない行動の詳細描写はネチネチ、
とくるから、読んでいて気持ちはとてもよくない。というか、かなり気分は悪い。
しかし、その気分の悪い話が、一度読み始めたら止まらなくなるのがまた不思議だ。


ひとことでいえばノワールなのかも知れないが、それにしても登場人物のIQが低すぎる。
そこには、美学もなければ、こだわりもない。オビの通り、「ただ馬鹿なだけ」だ。
なのに、読んでしまうのだ。それも一気に…
意外に身近な恐怖、という意味でホラー的な受け取り方もあるのだろう。
しかし、それにしてはあまりに現実的だ。自分たちのの周りにも激安バカは存在する。
だからといって、こういう連中に巻き込まれないための教訓が与えられるわけでもない。
恐怖と嫌悪感は募るばかりなのに、ページをめくる手は止まらないのだ。


それが戸梶圭太作品のエンタテイメント性の高さに由来するのか、
まだまだトカジ初心者の僕としては、その正体もわからないままだ。
もう少し読み込んでみるしかないのだろうが、
この作家の毒は、どこか読んでいるもののこころも蝕みそうで、あまり続けて読みたくない。
次はいつ頃、何を読むべきか。読み終えたら読み終えたで、悩みは尽きないのだ。