梅田ガーデンシネマで、「メゾン・ド・ヒミコ」

mike-cat2005-09-29



監督・犬童一心、脚本・渡辺あやの「ジョゼと虎と魚たち」コンビによる新作。
あの、優しく繊細なタッチはそのままに、
ゲイの老人ホームを舞台にした、ちょっとファンタジックなドラマが、展開される。
主演はオダギリジョー柴咲コウ、伝説のゲイバーのママを田中泯が演じる。
予告を観たときに感じたのは、「あっ、これ、キャストだけで勝ちだな」。
そう、このメインキャストの魅力だけでも、もう見逃せないという気にさせてしまう作品だ。


塗装会社に勤める冴えないOL、サオリ=柴咲コウのもとにある日、
キシモトハルヒコと名乗る若い男=オダギリジョーが訪ねてきた。
美しい瘦身の青年は、かつてサオリらを捨てて姿を消した父の愛人。
父=田中泯は、伝説のゲイバー「卑弥呼」の二代目ママ、ヒミコとして一世を風靡したが、
いまはゲイ専用の老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を運営、自らも末期ガンで死を目前にしていた。
ハルヒコは、サオリに週1回「メゾン〜」を訪れ、雑用のアルバイトをして欲しいと頼み込む。
借金を抱え、風俗情報誌を手にするまで困窮していたサオリは、
父への強い反感、そして嫌悪感を抱きつつも、バイト料欲しさにそれを引き受けるのだった。


唐突だが、まず不満な点を挙げたいと思う。
まず、作品そのものが、ゲイ=淫乱という固定観念にとらわれている点。
ゲイ、この作品ではホモセクシュアルだが、
オトコと見ればすぐにベッドに引きずり込みたがるゲイ、という描写は、
とても古くさいステレオタイプな考え方で、差別的でもある。
日本の後進的な状況を考えれば、それも〝おもしろい舞台設定〟のうちなのかもしれないが、
どこまで面白おかしく描写するか、というのは、
ふつうに考えるより複雑なラインでの判断になりえる、
という部分が、この作品からは伝わってこない。
ゲイを題材にする以上、もう少し繊細な配慮が欲しかった、という点がひとつ。


それに関連するのだが、意識的に悪趣味な描写に終始する点も気になる。
ドラァグ・クイーンとゲイ、オカマとホモ・セクシュアルといった、
さまざまな定義について、あまりにも未整理な状態で、物語世界が構成されている。
もちろん、ファンタジックな世界の構築、という狙いはわかるのだが、
ゲイ=オカマ=悪趣味=ピンクでフリフリという判断はあまりに短絡的だ。
別にゲイの世界に詳しいとも思わないが、リサーチ不足は否めない。
マイノリティであるゲイは、正確に描かなくても別にいい、
という判断があったわけでもないだろうが、それに類する甘さ、というのは感じられる。


もちろん、そういったすべてに対し、基本的には優しい視点では描いている。
だが、ゲイに対する理解の欠如は、その優しさをピンボケにしてしまう。
過剰な気遣いが、弱者に対する見下した視線になることもある。
やはり、相手への理解なしには、どんな気遣いも意味をなさないはずだ。
その点、せっかくの優しい視点がムダになってしまうのが、残念ではある。


エピソードの詰め込みすぎで、多少冗長な作りになった点も、無視できない。
ゲイ差別でいやがらせを続ける中学生たちのエピソードに、
隠れゲイの悲哀だとか、老いたゲイの〝末路〟的な描写などなど、
それぞれにドラマはあるし、意味はあるのだが、やはりもう少し絞り込むべきだろう。
本筋のひとつでもある、サオリとヒミコのドラマが、
どこか散漫な印象を受けたのは、そのせいもあったのではないかと思う。


とここまで欠点を論ってはみたのだが、理由は簡単。
その欠点を考えても、それでもこの映画はいい。だから、先にヤなことは書いたわけだ。
何よりもの魅力は、やはりヒミコ、サオリ、キヨヒコの三人だろう。
田中泯の存在感は、何ともいえないものがある。
出番自体はさほど多くないのだが、〝伝説のママ〟たる説得力もあるし、
娘のサオリに投げかけた「あなたのこと、好きよ」というセリフには、
この人にしか出せない、不思議で複雑な味わいが、満ちあふれていた。


柴咲コウも、苦労しつつも世に対して拗ね、ブスったれたオンナを、
いい感じに肩の力を抜いて、演じていたと思う。
マユを書いた程度のほぼノーメイク、がに股でママチャリをこいでみたり、と、
よぶんな気取りを捨て、不細工で不器用なオンナを演じる。
素の美しさをうまくコントロールした、というのが正確だろうか。
もちろん、テクニカルには稚拙な部分もあるのだが、
美しく見えるべき場面と、みっともなく見える場面をうまく使い分けたことで、
サオリのキャラクターを最大限膨らませていたんじゃないだろうか。


そして、この映画の最大の収穫といえば、オダギリジョーだろう。
テレビも邦画もふだんあまり見ないもので、さほど縁はないのだが、
少なくともこの作品のオダギリジョーはすごい。
もちろん、柴咲コウ同様、テクニカル的には微妙かもしれないが、
その立ち居振るまいは、まさにこの映画のポイントともなる、できばえと言っていい。


雨の中、古ぼけた赤い軽自動車で立ち尽くす姿。
常になぜかシャツを中にたくしこみ、細身でやたらと股上の深いパンツを着こなす。
ひとつ間違えば、ものすごくイケてない格好なのだが、ギリギリのセンで色気を保つ。
常に湿った瞳からは、危険なフェロモンがあふれ出す。
どこか投げやりなその表情には、
ヒミコを失う哀しさと、生き残る者の傲慢さが交互に顔を見せる。
オダギリジョー鑑賞を目的とする人はもちろん、そうでない女性もたまらないはずだ。
まったくのヘテロセクシュアルの僕だって、何かを感じずにはいられなかった。


この3人に加え、老いたゲイたちの醸し出す存在感が、またうまく混ざり合う。
それは、単にオダギリジョーの鑑賞映画に終わらせない、
絶妙の雰囲気を持った映画たらしめる、理由でもある。
観終わって「あの問題はどうなったの?」と、
理屈では思うことはいくつかあっても、感情的にはその雰囲気に酔い知れている。
それは感情的な世界観、という言葉で表せばいいのだろうか。
作品を覆い尽くす、絶妙のいい雰囲気が、忘れがたい余韻を与えるのだ。


パーフェクトな映画では、決してない。
しかし、忘れ得ぬ映画であることも、間違いない。
映画館を出ると、「もう一度、観たい」。そんな思いが頭をよぎった。