なんば千日前・敷島シネポップで「ロボッツ」。

mike-cat2005-08-01



図らずも、ユアン・マクレガー(声の出演)映画が続く。
FOXアニメって、「アイスエイジ」はスルーしたので、
このブルースカイのレーベルの映画は、初めてかも知れない。
吹き替え版は観ない主義なので、字幕版。
声の出演のロビン・ウィリアムズ、のクレジットに、
不安と期待がごったまぜになった状態で、上映に臨む。


基本はスモールタウン・ボーイの立身出世物語だ。
田舎の小さな町、リベット・タウンの貧しい家庭で生まれたロドニー。
部品も中古だらけのロドニーだったが、
大都会ロボット・シティの偉大な発明家ビッグウェルドの言葉に触発される。
いわく「どんなものから作られたロボットでも、輝くことはできるんだ」。
発明の道に目覚めたロドニーはある日、ロボット・シティへ旅立つ。
しかし、たどり着いた〝夢と希望の土地〟は、
強欲な経営者ラチェットに乗っ取られたビッグウェルド・インダストリーズによって、危機を迎えていた。
中古ロボットは要らない。スペア部品での修理は必要がない。
アップグレードできないロボットは、スクラップになってしまえ!
一度は夢をあきらめたロドニーだが、ラチェットらの陰謀に立ち向かうべく、仲間と立ち上がった…


とまあ、ストーリーは5000万回くらい製作されてきたような、定番中の定番。
しかし、この「カネがあるやつだけが人間」みたいな言い草、
ちょっとアメリカの現実を見ているようで、何ともいえないリアルな感じもある。
そんな中で、「誰でも輝ける」とか言い切ってしまうのには、
微妙な違和感も感じなくはないが、これを否定したら世の中ダメになるので、よしとする。
「あきらめなければ、夢はかなう〝可能性もある〟」ということと、
「やらないより、やった方が後悔は少ない」ということで、
たとえ無謀な夢や希望であっても、安直にあきらめるのはよくないよ、というメッセージは大事だ。


そこらへんはともかくとして、
この映画の最大の味はやはり、CGアニメならではの映像世界だろう。
トイ・ストーリー」「モンスターズ・インク」などを送り出したピクサーの柔らかい感触と比べ、
「アイスエイジ」(予告しか観てないが)やこの作品は、やや硬質な感じ。
だが、この作品ではティン・トイ(ブリキのおもちゃ)っぽいロドニーら、
ロボットたちのキャラクターを、独特の硬質な感じがとても鮮やかに描き出している。
アニメーションとしての滑らかな動きと、
ティン・トイとしてのギクシャク感のバランスが、まことに絶妙なのだ。
ピクサー作品なんかと比べると、キャラクターのビジュアルに魅力が微妙に乏しく、
グッズ化の展開なんかも難しそうな感じはあるのだが、
そこはそれ、ストーリーに重きを置いた、と思えば、さほど気にならない。


映画全般のタッチとしては、ドリームワークス系のノリに近い。
はてはスター・ウォーズから(〝あの方〟の声も…)、
雨に唄えば」に、JB、ブリットニーらアーティストもたくさん…
たぶん相当にお好きなヒトでないと、全部は把握できないくらいのパロディの連続だ。
ストーリーそのものが混乱するようなレベルではないので、けっこう楽しめる。
パンフレットに、みのわあつお(ポップ・カルチャー評論家)あたりの解説が欲しかったな、という感じ。


そのパロディをほぼ一手に引き受けているのが、ロビン・ウィリアムズ演じるフェンダーだ。
いつも通りのマシンガン・トークで、ずーーーーーーーーーーーーーっとギャグをかまし続ける。
確かに面白い。面白いんだが、既視感というか、何というか…
「アラジン」の魔人ジニーと何が違う、と聞かれて、答えに詰まる感じだ。
よくも悪くもこのロビウィのトークが、映画の雰囲気を決定づけている。
ちなみに、ロビウィというのは、
ウィリアムズが来日会見でブラッド・ピット=ブラピを聞き付け、俺もこう呼べ、と迫ったというやつ。
常にやり過ぎでウザがられるウィリアムズだけに、
よりきちんとしたレベルでヒアリングできるヒトの間では、評価が分かれそうだけど、
まあ、僕レベルのいいかげんなヒアリングだと、けっこう素直に楽しめる。


単純なストーリーは、えてして政治的に微妙な問題を孕むことも多いが、
この作品に関しては、前述の「夢は叶う」への違和感をのぞけば、そうイヤな感じはない。
傑作か、と訊かれれば、「ううん、そうねぇ、どうだろねぇ…」なんだが、
子どもは子どもなりに、大人は大人なりの楽しみ方もできる、良品であることは間違いない。
ピクサー作品みたいな、グググとくるような感動こそないが、
ちょいとホロリとしながら、エンドクレジットを迎えることもできた。
素直に楽しい作品だったな、と満足できる一本だったと思う。


ただ、気に入らない点もひとつある。
それは、エンドクレジットの改変。何でか、最後の曲が〝勝手に〟矢井田瞳に差し替えられてる。
矢井田瞳は別に嫌いじゃない。
ほとんど邦楽は聴かないけど、CDだって(CCCDだけど)一枚持ってる。
だが、そういう次元じゃなくて、これは許せない。
たとえ、矢井田瞳が〝世界ナンバー1〟アーティストであっても、だ。
吹き替え版、というのはオリジナル性よりも、
独特のアレンジを楽しみたいヒトが観る者だから、曲の差し替えだって別に構わないと思う。
しかし、字幕版は別だ。
俳優の演技(声)を、あくまでオリジナルで楽しみたいから、字幕で観る。
もちろん、戸田奈津子のインチキ字幕とかは、映画の楽しみのジャマなので、
俳優のセリフを、なるべくきちんと聴き取ろうと努力だってしている。
だから、字幕版で日本流のアレンジをされるのは、エンドクレジットの1曲だって、不快のひとことに尽きる。
これを許すと、次第にエスカレートして、いくらでも〝悪さ〟をしかねない。
吹き替え版上映がどんどん増え、
字幕版上映が少なくなっているだけでも、本当は不満なのに、字幕版まで〝改悪〟されたら…


せっかくのいい映画の余韻も、
この〝改悪〟と、今後への不安でだいぶ薄れてしまった。
何らかの形で、抗議する方法とかないか、ちょっと考え中。
まあ、それより戸田奈津子追放運動とかの方が、大事な問題という気もするが…