名古屋は名駅・ゴールド劇場で「メリンダとメリンダ」
しかし、ゴールド劇場って、すごいネーミングだ。
ちなみに併設はシルバー劇場、非常にわかりやすい。
名古屋は単館系の劇場も少ないことだし、
ついでに、ブロンズ劇場も作ったらどうだい? というのは余計なお世話か。
ウディ・アレンの最新作、だ。といっても2004年公開だけど。
まあ、スカーレット〝ビッチ〟ヨハンスン主演の「マッチ・ポイント」(原題)は、
まだカンヌでのプレミア上映だけみたいだし、
「ハリウッド・エンディング」みたいな、日本公開〝塩漬け〟作品でもない。
一応、まだフレッシュな、最新作といっていいんだろう。
趣向もなかなか面白い。
人生において、より深みがあるのは喜劇か、悲劇か…
二人の劇作家が、マンハッタンのフレンチ・ビストロで論争を繰り広げる。
そんな二人の前に、あるひとりの女性のストーリーが提示される。
医者との恵まれた(もちろん経済的に、だが)生活を、不倫で破綻させ、
なおかつ不倫相手との間でも、ひと悶着を起こした女性が、
映画関係者のホームパーティーに、予期せぬ客として訪れる…
劇作家たちは、論争に決着をつけるべく、ここから発展するストーリーを、
「悲劇」と「喜劇」の2バージョンで描いていく。
過去にも例がない、というほどの新鮮味はないが、「おっ♪」という感じだった。
しかし、なのだ。
ウディ・アレン映画では、いつもこんなこと考えているようだが、
観ていて何となく納得がいかない。
この論争が結論ありき、というか、ごく当たり前のことを示唆するだけなのだ。
つまり、物事には悲劇的な側面もあるし、喜劇的な側面もある。
それが、どちらかに大きく傾く場合もあるし、表裏一体の場合もある。
序盤の論争場面も、過剰な演出で対立を強調しているが、
結論がそこに落ち着きそうなのは、最初から、あまりにも明白なのだ。
だからこそ、観客は、それを承知した上で、
それでもカリカチュアライズされたふたりのメリンダのストーリーを見届けるわけだが、
そのふたつの対比が、意識的かどうかわからないのだが、
ある部分では必要以上に強調され、ある部分では曖昧になる。
それも人生の妙、といったらそれまでだけど、
この趣向の映画として観るには、やたらと中途半端に感じられてしまうのだ。
悲劇と喜劇、ふたつのドラマの主人公・メリンダを務めるのはラダ・ミッチェル。
僕はあまりなじみがないのだが「フォーン・ブース」「ネバーランド」を観る限り、
どっちかというと陰気系、の女優のイメージが強かった。
よって、悲劇バージョンにバイアスかかってない?、という不安もあったのだが、
そこらへんは、意外と問題なし、と言っていいと思う。
悲劇バージョンの眉間のシワに、必要以上の力感は感じたけど、
喜劇バージョンも、意外といい感じの笑顔を見せていて、演技そのものは好感が持てた。
問題は、やっぱり脚本と、ほかのキャストの問題なのだろうと思う。
まずはふたりのメリンダのキャラクター設定だ。
悲劇バージョンのメリンダは、なにごとにもネガティブ志向。
それも、かなりへヴィなタイプ。好きこのんで、自分を不幸に追い込むタイプだ。
もっとも、このタイプは一般的な感覚での〝不幸な状況〟において、
自分が悲劇のヒロインとして、注目を集め、
その〝不幸な〟自分に酔い知れることが、ある意味〝幸せ〟なのだから、
別に本当の意味での悲劇でも何でもない、ともいえる。
「わたしは幸せになりたいのに…」と口にするけど、そんなの真の願望じゃない。
その〝幸せ〟に浸った途端、もの足りない、と抜かし、その〝幸せ〟を破壊にかかる。
それが、別に悪いと言うつもりは毛頭ない。
そんなの、好きにすればいい。幸福追求の形の多様さに、異論はない。
だけど、こういうヒトの好き勝手な振る舞いに巻き込まれたくない、というだけだ。
だが、ひとつだけいえることは、このメリンダのストーリーは、悲劇でも何でもないこと。
もちろん、暗さは抜群だけど、それは観ていて苛立ちを感じさせる部分が強い。
クロエ・セヴィニーなんかメリンダの友人でも登場してるのだが、
このなかよしグループが、マンハッタンはパーク・アベニューでお育ちになった階級の方たちだ。
甘やかされて育って、好き勝手に暴走しているヒトたちに、人生の深みも何もあったもんじゃない。
メリンダの眉間のシワには、
むしろ人生の暇つぶしの一環としての、小道具的な意味しか感じられないのだ。
だから、ウィル・フェレル(近日公開「奥さまは魔女」)が登場し、
ドタバタ色が強まる喜劇バージョンとの対比が、どうにも曖昧になる。
もちろん、フェレルの根っからの陽性的な雰囲気が、
ドラマを明るく、コメディチックに飾り立てているのは確かなんだが、
〝悲劇〟と比べて、どこをどう対比させたいのか、よく理解できない。
むしろ、映画全体のトーンから、フェレルが浮き上がっていくのが、観ていて、やや痛い。
フェレルって、いいコメディアンだと思うのだが、
アレンのドタバタとはどこか相容れない、そんな気がしてならないのだ。
喜劇バージョンの最重要人物となるフェレルがこれだから、
〝喜劇と悲劇〟論争という、本来の趣向からは、著しく趣が異なったドラマが展開される。
売れない俳優役を演じたフェレルの、
上昇志向激しい映画監督の妻役を演じるアマンダ・ピート(「隣のヒットマン」「アイデンティティー」)も、
いい感じにコメディアンテイストを発揮していて、これはこれで悪くないドラマにはなっている。
けど、なのだ。それ、あくまで方向が違う。
それを観たくて、劇場に足を運んだわけではない。
だから、悲劇編で感じた苛立ちと相まって、不満は次第に膨らんでいく。
映画の最後で、もったいぶった感じで、アレンさまから〝解答〟が示される。
もう、こっちだって最初からわかりきっている結論。
しかし、釈然としない。その結論を示すのに、この〝例〟でいいの?
僕にはとても全部を拾うことはできないけど、
この映画の様々な場面で、さまざまな古典映画とかに、オマージュが捧げられ、
いわゆる、文学通、映画通ならうなるような引用とかがなされてるのは、理解している。
そして、選曲も相も変わらずのナンバーばかりではあるが、
非常にセンスよく、それも深い含蓄のある選曲がなされていることも承知している。
そのセンスにおいては、アレン印のブランドが貫かれた作品だと思う。
だが、だ。(こればっかりだが…)
この映画を例えるなら、こうなる。
絶妙のムードで描かれ、極上の語り口で語られた、見当違いなお話。
その極上のセンスにうっとりとさせらげるが、
その一方で「何じゃ、そりゃ?」と思わずにいられない。
「アレンさん、ここはこうした方がいいんじゃないでしょうか?」。
そういうことを言えるヒトが存在しない、
孤高の巨匠アレンの姿を、勝手に想像してしまう。
日本では、NY以上に信奉者が多いだけに、
〝アレンを否定するヒト=センスのないヒト〟的な見方は、とても強い。
もちろん、僕は根っこがバカ映画好きなんで、それをムキになって否定する気もないが、
王様の偉大さは偉大さとして認め、裸であることは指摘する。
そんな環境に、ウディ・アレンをもう一度、置いて欲しいな、というのは正直思う。
俳優の、演技派としてのハクづけのための巨匠になってしまう前に(もう、なってる?)。
とはいえこの作品、観る価値がないか、というとそうは言い切れない。
やっぱり、観れば観たなりに、いろいろな部分で触発はされるのだ。
ここまで好き放題書いておいて、何なんだが。
ここらへん、やっぱりこのウディ・アレンの困ったトコというか、何というか。
ま、やっぱりすごい監督なんだな、と、保身に走ったかのような結論に至る。
論旨が一貫しないこの文章で、映画の矛盾を指摘しまった。ああ、お粗末…
そうそうみなさま、ご鑑賞の際はパンフレット、ぜひともご購入を。
辛酸なめ子のイラスト&コラムがとにかく笑える。
テーマは「不幸になる女の特徴」。
実はきょう、一番面白かったのはこれだったりする。
このパンフレット買うためだけに劇場に足を運んでもいいくらい。
その〝特徴〟、ひとつだけ紹介する。
「いなりずしが大好物な女」。
なめ子さん、全国3000万のいなりずし愛好者に訴えられないよう、気をつけてくださいね♪