名古屋は名駅・ゴールド劇場で「メリンダとメリンダ」

mike-cat2005-07-19



しかし、ゴールド劇場って、すごいネーミングだ。
ちなみに併設はシルバー劇場、非常にわかりやすい。
名古屋は単館系の劇場も少ないことだし、
ついでに、ブロンズ劇場も作ったらどうだい? というのは余計なお世話か。


ウディ・アレンの最新作、だ。といっても2004年公開だけど。
まあ、スカーレット〝ビッチ〟ヨハンスン主演の「マッチ・ポイント」(原題)は、
まだカンヌでのプレミア上映だけみたいだし、
「ハリウッド・エンディング」みたいな、日本公開〝塩漬け〟作品でもない。
一応、まだフレッシュな、最新作といっていいんだろう。


趣向もなかなか面白い。
人生において、より深みがあるのは喜劇か、悲劇か…
二人の劇作家が、マンハッタンのフレンチ・ビストロで論争を繰り広げる。
そんな二人の前に、あるひとりの女性のストーリーが提示される。
医者との恵まれた(もちろん経済的に、だが)生活を、不倫で破綻させ、
なおかつ不倫相手との間でも、ひと悶着を起こした女性が、
映画関係者のホームパーティーに、予期せぬ客として訪れる…
劇作家たちは、論争に決着をつけるべく、ここから発展するストーリーを、
「悲劇」と「喜劇」の2バージョンで描いていく。
過去にも例がない、というほどの新鮮味はないが、「おっ♪」という感じだった。


しかし、なのだ。
ウディ・アレン映画では、いつもこんなこと考えているようだが、
観ていて何となく納得がいかない。
この論争が結論ありき、というか、ごく当たり前のことを示唆するだけなのだ。
つまり、物事には悲劇的な側面もあるし、喜劇的な側面もある。
それが、どちらかに大きく傾く場合もあるし、表裏一体の場合もある。
序盤の論争場面も、過剰な演出で対立を強調しているが、
結論がそこに落ち着きそうなのは、最初から、あまりにも明白なのだ。
だからこそ、観客は、それを承知した上で、
それでもカリカチュアライズされたふたりのメリンダのストーリーを見届けるわけだが、
そのふたつの対比が、意識的かどうかわからないのだが、
ある部分では必要以上に強調され、ある部分では曖昧になる。
それも人生の妙、といったらそれまでだけど、
この趣向の映画として観るには、やたらと中途半端に感じられてしまうのだ。


悲劇と喜劇、ふたつのドラマの主人公・メリンダを務めるのはラダ・ミッチェル
僕はあまりなじみがないのだが「フォーン・ブース」「ネバーランド」を観る限り、
どっちかというと陰気系、の女優のイメージが強かった。
よって、悲劇バージョンにバイアスかかってない?、という不安もあったのだが、
そこらへんは、意外と問題なし、と言っていいと思う。
悲劇バージョンの眉間のシワに、必要以上の力感は感じたけど、
喜劇バージョンも、意外といい感じの笑顔を見せていて、演技そのものは好感が持てた。


問題は、やっぱり脚本と、ほかのキャストの問題なのだろうと思う。
まずはふたりのメリンダのキャラクター設定だ。
悲劇バージョンのメリンダは、なにごとにもネガティブ志向。
それも、かなりへヴィなタイプ。好きこのんで、自分を不幸に追い込むタイプだ。
もっとも、このタイプは一般的な感覚での〝不幸な状況〟において、
自分が悲劇のヒロインとして、注目を集め、
その〝不幸な〟自分に酔い知れることが、ある意味〝幸せ〟なのだから、
別に本当の意味での悲劇でも何でもない、ともいえる。
「わたしは幸せになりたいのに…」と口にするけど、そんなの真の願望じゃない。
その〝幸せ〟に浸った途端、もの足りない、と抜かし、その〝幸せ〟を破壊にかかる。
それが、別に悪いと言うつもりは毛頭ない。
そんなの、好きにすればいい。幸福追求の形の多様さに、異論はない。
だけど、こういうヒトの好き勝手な振る舞いに巻き込まれたくない、というだけだ。


だが、ひとつだけいえることは、このメリンダのストーリーは、悲劇でも何でもないこと。
もちろん、暗さは抜群だけど、それは観ていて苛立ちを感じさせる部分が強い。
クロエ・セヴィニーなんかメリンダの友人でも登場してるのだが、
このなかよしグループが、マンハッタンはパーク・アベニューでお育ちになった階級の方たちだ。
甘やかされて育って、好き勝手に暴走しているヒトたちに、人生の深みも何もあったもんじゃない。
メリンダの眉間のシワには、
むしろ人生の暇つぶしの一環としての、小道具的な意味しか感じられないのだ。


だから、ウィル・フェレル(近日公開「奥さまは魔女」)が登場し、
ドタバタ色が強まる喜劇バージョンとの対比が、どうにも曖昧になる。
もちろん、フェレルの根っからの陽性的な雰囲気が、
ドラマを明るく、コメディチックに飾り立てているのは確かなんだが、
〝悲劇〟と比べて、どこをどう対比させたいのか、よく理解できない。
むしろ、映画全体のトーンから、フェレルが浮き上がっていくのが、観ていて、やや痛い。
フェレルって、いいコメディアンだと思うのだが、
アレンのドタバタとはどこか相容れない、そんな気がしてならないのだ。


喜劇バージョンの最重要人物となるフェレルがこれだから、
〝喜劇と悲劇〟論争という、本来の趣向からは、著しく趣が異なったドラマが展開される。
売れない俳優役を演じたフェレルの、
上昇志向激しい映画監督の妻役を演じるアマンダ・ピート(「隣のヒットマン」「アイデンティティー」)も、
いい感じにコメディアンテイストを発揮していて、これはこれで悪くないドラマにはなっている。
けど、なのだ。それ、あくまで方向が違う。
それを観たくて、劇場に足を運んだわけではない。
だから、悲劇編で感じた苛立ちと相まって、不満は次第に膨らんでいく。


映画の最後で、もったいぶった感じで、アレンさまから〝解答〟が示される。
もう、こっちだって最初からわかりきっている結論。
しかし、釈然としない。その結論を示すのに、この〝例〟でいいの?
僕にはとても全部を拾うことはできないけど、
この映画の様々な場面で、さまざまな古典映画とかに、オマージュが捧げられ、
いわゆる、文学通、映画通ならうなるような引用とかがなされてるのは、理解している。
そして、選曲も相も変わらずのナンバーばかりではあるが、
非常にセンスよく、それも深い含蓄のある選曲がなされていることも承知している。
そのセンスにおいては、アレン印のブランドが貫かれた作品だと思う。


だが、だ。(こればっかりだが…)
この映画を例えるなら、こうなる。
絶妙のムードで描かれ、極上の語り口で語られた、見当違いなお話。
その極上のセンスにうっとりとさせらげるが、
その一方で「何じゃ、そりゃ?」と思わずにいられない。
「アレンさん、ここはこうした方がいいんじゃないでしょうか?」。
そういうことを言えるヒトが存在しない、
孤高の巨匠アレンの姿を、勝手に想像してしまう。
日本では、NY以上に信奉者が多いだけに、
〝アレンを否定するヒト=センスのないヒト〟的な見方は、とても強い。
もちろん、僕は根っこがバカ映画好きなんで、それをムキになって否定する気もないが、
王様の偉大さは偉大さとして認め、裸であることは指摘する。
そんな環境に、ウディ・アレンをもう一度、置いて欲しいな、というのは正直思う。
俳優の、演技派としてのハクづけのための巨匠になってしまう前に(もう、なってる?)。


とはいえこの作品、観る価値がないか、というとそうは言い切れない。
やっぱり、観れば観たなりに、いろいろな部分で触発はされるのだ。
ここまで好き放題書いておいて、何なんだが。
ここらへん、やっぱりこのウディ・アレンの困ったトコというか、何というか。
ま、やっぱりすごい監督なんだな、と、保身に走ったかのような結論に至る。
論旨が一貫しないこの文章で、映画の矛盾を指摘しまった。ああ、お粗末…


そうそうみなさま、ご鑑賞の際はパンフレット、ぜひともご購入を。
辛酸なめ子のイラスト&コラムがとにかく笑える。
テーマは「不幸になる女の特徴」。
実はきょう、一番面白かったのはこれだったりする。
このパンフレット買うためだけに劇場に足を運んでもいいくらい。
その〝特徴〟、ひとつだけ紹介する。
「いなりずしが大好物な女」。
なめ子さん、全国3000万のいなりずし愛好者に訴えられないよう、気をつけてくださいね♪