109シネマズみなとみらい横浜で「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」

mike-cat2005-06-11



長い劇場名に、長いタイトル…


ショーン・ペンナオミ・ワッツの「21グラム」コンビに、
ホテル・ルワンダ」の日本公開が待ち遠しいドン・チードル
この出演陣だけでも、僕的にはもう必見、という感じ。
さらに製作は、
アルフォンソ・キュアロン(「天国の口、終わりの楽園」)、
アレクサンダー・ペイン(「サイドウェイ」「アバウト・シュミット」)、
レオナルド・ディカプリオ(この人は別にいなくてもいいけど)と豪華布陣。
カンヌでは「ある視点」部門出品作品。
いかにも、クセのある映画の匂いが、ぷんぷんと漂う。


そして、この映画にはもうひとつウリがある。
それは、暗殺の手口。
〝飛行機をハイジャックして、ホワイトハウスに突っ込む〟
そう、あの「9・11」と同様のテロを、
27年前に企んだ(目的はだいぶ違うが)男の実話に基づく作品なのだ。


ニクソン暗殺というからには、その同時代のアメリカの雰囲気に
精通していないとダメかな、と思い、上映前にパンフレットでお勉強する。
「事件」が起こったのは、1974年。
JFKにRFK、マーティン・ルサー・キングも暗殺され、
相も変わらずベトナム戦争は泥沼化の一途をたどる中、
全米を揺るがす「ウォーターゲート事件」が発覚した。
景気的にも、あまり芳しくなかったんだろうか。
映画そのものから感じる雰囲気も〝覆い被さるような閉塞感〟という印象だ。


そんな時代に生きる、不器用で愚直な男、サム・ビック=ショーン・ペン
成功者一族の家族に見離され、妻とも別居中、仕事もうまくいかず転々…。
セールスの仕事でも、客を〝騙して〟売り上げを伸ばす上司に、
尋常じゃないレベルの憤りを覚える毎日だ。
そんなサムの数少ない理解者ボニー=ドン・チードルとは、
将来一緒に事業を起ち上げる予定だが、先の見通しは正直、明るくない。
別居中の妻マリーは、ナイトクラブで働く一方、ほかの男との交際も始める。
職場の上司から、家族から、そして妻から、疎んじられる中で、
次第に追いつめられていくサムは、その怒りの矛先を、
不正の根源ともいえる大統領、リチャード・ニクソンに向けられる。


このサムの人物造型が、絶妙にリアルというか、何というか。
感情移入できそうでできない、でも微妙に切り捨てられない、
そんなギリギリのラインをふわふわと漂う人物なのである。
ひとことでいえば、このサム、社会不適合者そのものだ。
どんな仕事をやっても、長続きしない。
愚直は愚直でも、かなり〝愚〟に傾いた人物だ。


その割に、プライドは高い。
ほんのちょっとしたことで、人格を傷つけられた、と憤慨する。
そりゃ、仕事をしてると、いろいろと妥協しなければいけないことは多い。
でも、そういう諸々のコトに対しても、どこまでは譲れるか、
という自分なりのコードというか、物差しがあれば、
何かに妥協をしたところで、自分自身が擦り切れることはないはずだ。
要するに、プライドの使いどころもわからない、勘違いちゃんでもある。


いわゆるソーシャルスキルも、著しく低い。
だから、妻にも見離されるし、友達もいない。
ボニーですら、かなり寛大な気持ちで、サムを見守っているレベルだ。
さらにタチが悪いことに、「なら、孤独でもかまわない」
という割り切り方もできない。孤立することで、どんどんストレスを溜めていく。


生活の方は当然、改善していく要素が皆無だから、
こうした私憤のボルテージは、上がっていく一方だ。
「俺はこんなに正直に、勤勉に生きているのに…」
ホントはそんなに正直でも、勤勉でもないんだが、
冷静に自分を分析する能力も、当たり前のようにないから、
この〝私憤〟が、いつの間にか〝義憤〟にすり替えられる。
「世の中が、社会が、政治がすべて悪いんだ」
ボニーの子どもの前でも、平気で怒りをぶちまけ、
飼っていた犬にまで手をかけるような人間のクズのくせに、
責任を全部、社会に、政治に、そしてニクソンに押しつけるのだ。


まあ、いかにも〝社会に恨みを持つ〟タイプの典型といえるだろう。
学校に爆弾を持ち込んだり、刃物を持って乱入してきたり、
小動物を虐待したり(これが一番許せないが)という連中と基本的に大差ない。
当然、同情の余地とかまったくない。
ないんだが、このサムのような体験に、
まったく記憶がない、という人もそういないような気がする。


「ちゃんとやっても、認められない」
→「インチキな人間ばかりが、得をしている」
→「世の中が間違っているんだ」
たとえば、政治(政治家)に対してであれば、
〝私憤〟〝義憤〟の区別はともかくとして、
「一分の理」にとどまらないレベルで、怒りを感じて然るべき部分がある。
それを、テロという形で具現化してしまうか、それともほかの手段を取るか、
の間には、かなりの距離があることは、言うまでもないが、
こうした想いそのものは、誰しも一度は頭に浮かべたことがあるんじゃないだろうか。
映画のサムの場合は、前述の通り、論理に破綻がありすぎる。
だが、それでも何となく、他人事に思えない、何かがあるのだ。


この映画を観て最初、
思ったのは「なぜ、こういう感情移入しにくい人物像にするのか」ということ。
映画としてのカタルシスを考えるなら、
タクシードライバー」のデ・ニーロのように、
「怒りはごもっとも」な人物像、そして状況を描くのもテだったはずだ。
だが、映画の中身を反芻していくうちに、次第にその感想も変わっていく。
感情移入しにくい、このサムに、間違ったら、自分自身がなってしまうかもしれない、
そんな恐ろしさ、やりきれなさが、この映画のメッセージなのかもしれない、と。
そりゃ、こんな妄想狂、偏執狂にはそうそうならないはずだけど、
人間、いろいろなことで追いつめられ続けたら、どう変わるかわからない。
いまはうまくいっていても、ちょっとしたきっかけで、
すべてがうまくいかなくなることだって、ないとは言い切れない。
そうなった時、〝人のせい〟〝社会のせい〟にしない自信…
正直、僕はわからない。つくづく、考えさせられる。
もちろん、テロリストになるかどうか、はまったく別次元ではあるんだけど。