J・M・クッツェー「エリザベス・コステロ」

mike-cat2005-04-26



アーティストではない。あれはエルビス・コステロ
ノーベル文学賞作家の最新作だ。


難解だ。それも、〝かなり〟のレベル。
読んでいるうちに、いつの間にか字面を追っているだけになる。
で、読み返す。少し頭の中に入ってくるが、また文字の迷宮に迷い込む。
クッツェーは「恥辱」を4、5年前に読んだきりだが、
こんなに難解だったかな、と思い起こしてみる。
いや、そうでもなかったような…


「恥辱」は、教え子に手を出した大学教授が、
さまざまな〝恥辱〟にまみれていく、という〝ジェレミー・アイアンズ風味〟の小説。
サー・ジェレミーが何なのか、というと
「ダメージ」「Mバタフライ」「ロリータ」の3作品が近いテイストだから、だ。
禁断の愛、みたいな部分に的確に手を出す。
ルイ・マル監督作品「ダメージ」では、ジュリエット・ビノシュ演じる息子の婚約者。
デーヴィッド・クローネンバーグの「Mバタフライ」では、
ジョン・ローン演じるオカマちゃん。
(時代背景的には×。それも、股ぐらまでまさぐっておいてオカマと気づかない…)
揚げ句の果てに、エイドリアン・ラインの「ロリータ」では、
タイトル通り、ロリータ娘のドミニク・スウェインに狂う。
そういう意味で、
「いつアイアンズ主演で映画化してもいい作品」というのが一番の記憶だった。


しかし、「恥辱」は、こんなに難解ではなかったと思う。
この小説は、オーストラリアの小説家エリザベス・コステロが、
招かれた各国の講演の中で、
クッツェーに代わって、リアリズムを、アフリカの文学を、人文学を、悪を語る。
そんな小説という覚悟ができていなかったばかりか、
たびたび引用される古典文学の素養がないため、
脳みそ、全然ついていかない。
訳は悪くないどころか、むしろとても読みやすいので、
もちろん、読み手の僕の方の問題だったりはするのだが…


コステロという人物の設定が興味深い。
1928年、オーストラリアはメルボルン生まれの66歳。
1951年から63年までイギリスとフランスで暮らし、
2度の結婚、こどもはそれぞれの結婚で1人ずつの2人。
著作は、9作の小説と、2冊の詩集と、野鳥の生態に関する本を1冊。
文名をあげたのは、4作目の「エクルズ通りの家」という小説だ。
出身地である南アフリカでの評価以上に、
2度のブッカー賞ノーベル文学賞まで獲得した、
ヨーロッパでの高評価が特徴なあたりは、みずからをちょいと投影している感じ。
連作となっているこの小説では、
2編目の「アフリカの小説」で、そこらへんに触れている。


ナイジェリア人作家のエマニュエル・エグドゥが、アフリカ文学について語るのだ。
アフリカの小説の何が特別なのか。エグドゥは
「アルファベットの概念がアフリカで育ったものでない」
「物を読むというのは、アフリカらしい概念ではない」
「アフリカが置かれた貧困という環境の中では、代金の元が取れる必要がある」
などの理由で、アフリカでは小説市場が成立しない理由を語る。
よって、彼は国外へ渡り、本を出版し、読み、評論し、話題にし、生計を立てる。
そこから、アフリカン・ノヴェルについての一説あるのだが、
これがまた難解なので、あんまり上手に解説できそうにない。
だが、印象的な言葉がある。アフリカ文学を語った上で、
文学というのが元来とてもヨーロッパ的であることに言及した部分だ。


口承文化学者のポール・ズムトールの言葉の引用だ。
〝十七世紀以来、ヨーロッパというものは、世界中に癌のように広がってきた。
 初めはこっそりと、だがしばらくすると速度をあげ、今日にいたるまでに、
 さまざまな生き物や動物や植物や住居環境や言語をめちゃくちゃにしてきた。
 一日がすぎるごとに、世界の数カ国語が排斥され抑えこまれて消えていく…
 この症状のひとつが、文学と呼ばれるものであったのは、
 はなから間違いがない。文学がひとつにまとまって栄え、
 現在のような形−人類のもつ最大の現象のひとつ−になったのは、
 肉声を拒否したからなのだ…〟
僕の説明が不十分なので、とてもわかりにくいかとは思うが、
何となく伝わってくる部分はあるんじゃないだろうか。
書くことに必要以上に重きを置いた社会への痛烈な批判でもある。
小説の登場人物の言葉や、引用を用いてとはいえ、
それが、ノーベル文学賞作家の文章に出てくる、というのも、不思議な感じだ。


この後も、さまざまな問題が、
エリザベス・コステロや、ほかの登場人物の口から、語られる。
噛みしめるように読まないと、ちんぷんかんぷんになるし、
ちゃんと読んでいても、けむに巻かれたようになる。
まあ、なかなかの難物なのだが、
それでいてどことなく心地よさを感じさせるような、不思議な小説でもある。
解説によれば、クッツェーはこの本のサブタイトルを「8つのレッスン」としているとか。
やはり、クッツェー〝先生〟による、講義の意味もあるらしい。
道理で…、と思いつつも、なるほど面白かったな、とも感じる。
こんなメロメロのレビューしか書けないで、
「本当に理解しているのか?」と疑われてもしかたないが、
理解できないなら、できないなりに興味深かったりもするのが、
この本の味わいかな、とも思ってみたりする。
それでも読まれる際は、くれぐれもアタマが元気なときにどうぞ。
僕のように、寝る前とヘビィなランチ後だと、ちょっと…