出久根達郎「かわうその祭り」

mike-cat2005-04-23



各書評で引っ張りだこになってた本だ。
表紙がかわいい♪ マッチラベルに模したイラスト。
かわうその上に、おっちゃんが乗ってる。

なんで、かわうその祭りか、というと、
正岡子規が、寝床の回りが本だらけの自分の部屋を
〝獺祭書屋〟と呼んだのに由来するらしい。
この獺(かわうそ)という生き物、捕った魚を食べる前に散らかすという。
で、転じてコレクターがいわゆる獲物を、
自分の周囲に広げる様子を〝獺祭〟と呼ぶのだ。


そう、この小説は
古本屋、くず紙拾い(後述する)、映画コレクターなどなど、
いわゆる収集(収拾、も込み?)関係の方々が、
紙くず、フィルムくず(くずじゃないが…)から、思わぬ謎に遭遇する。
ブルーフィルムに挿入された、旧満州鉄道映画部の〝封印された〟映画。
そう、かわうその祭りよろしく並べた収集品が、
かつての満州を舞台にした、壮大なミステリーを呼び起こすのだ。


ちなみにオビには、
直木賞受賞作でもっとも高価な単行本は?」
「阿片を栽培する植物園が東京にはある?」
「戦中の日本は雑草で軍服を作っていた?」と羅列されている。
おう、まるで「トリビアの泉」?
何とも味わい深いトリビア、ウンチクを、
これまたかわうその祭りよろしく並べ挙げた、という意味で、
タイトルはダブルミーニングにもなっていたりする。
ちなみに、このオビ、ちょいと間違いがあって、
本文中で触れられている、「もっとも高価な」は、
芥川賞受賞作だったりするのだが、まあよしとしよう。


前述した〝くず紙拾い〟について説明したい。
登場人物に「貴重文化紙くず」商の綿貫、というのが登場する。
もとは脱サラ(この言葉も消えゆく言葉だな…)した古本屋。
戦前の少女雑誌を買い入れたら、千代紙のカバーが施されていた。
店でさばけそうにない、このカバーを付録にしたら、〝大化け〟した。
何と、竹久夢二デザインの千代紙だったのだ。


数倍もの大枚に化けた、この千代紙をヒントに、
綿貫は「文化紙くず」を取り扱うようになるのだ。
本なら保存されるはずのものでも、
パンフレット、ちらし、包装紙…となれば、後生に残る可能性は少ない。
そこに、文化意義を唱える綿貫の心意気や、よしとしたい。
欧米なんかではある程度市場が確立されたジャンルかもしれないが、
利殖の可能性も含め、目の付けどころがとことん鋭い。


小説では、これを雑誌、雑本でやり遂げた実在の人物を取り上げている。
そう、大宅壮一文庫で知られる、評論家・大宅壮一氏である。
作者は綿貫の言葉を借りて、こう絶賛する。チョイ長いが、許してほしい。


「評論家だけど、そちらの業績の凄さより、この文庫の計り知れぬ裨益だよ。
 これこそ、大宅壮一の傑作だ。
 今でこそ雑誌やパンフ類、それに芸能人のゴシップ集、
 文化人や政財界人のスキャンダルを描いた本などを、こうして皆が利用するけど、
 大宅が古本屋や古書展を回って収集していた当時は、
 ゴミ拾いと陰で笑っていたんだ。あんなもの何の役にも立たないと、ね」


公共図書館が見向きもしない雑本を、大宅壮一は黙って収集した。
 古本屋ですら馬鹿にする本だから、今集めておかないとこの世から消える、
 と使命感を燃やしたんだ。大宅の偉いのは収集した本を私物化せず、
 こうして一般の者が利用できるよう公開した。
 おかげで私らはどんなに助かっているか。
 だって、三、四十年前の週刊誌がここに来れば読めるんだよ。
 古本屋にあれば一冊五百円くらいだろうが、あればの話で、
 特定の号を見つけてくれと頼んだら、まず十年は待たされるね。
 十年で見つかれば増しだ。一生、目にすることができないかも知れない。
 それが読み捨て本の宿命だ。
 限定十部、あるいは数十万円の本は、三十分で入手できるけど、ね」


ううん、思わずうなってしまう。
僕なんかも、古い雑誌をため込むタチなので、すごく伝わってくる。
15年、20年前の雑誌とか開くと、すっごくノスタルジックなのだ。
記事そのものの内容だけではなく、グラビアの女のコだとか、広告だとか…
コマーシャルごと録画してあるテレビ番組とかと相通じる部分もあるだろうか。
まあ、そんなワケで雑誌をため込んで、
引っ越しの度にヒィヒィいっていたりするのだ。
もちろん、泣く泣く処分することも多いから、
いまになってみると惜しいことしてるんだが、スペースというものもあるしね…
ここ二回の引っ越しでは、もろもろの出版物の半分を処分した。
だから、この小説を読んでいて、〝くやちい〟思いをしたのも確かだ。


まあ、そんなわけで、と同じ表現が続くんだが、
モノが捨てられない派には、たまらない味わいを持った小説といえる。
あと書きがまた、心に響いたりする。
バブルの時代を、もったいながり受難の時代、と位置付ける。
土地以外は金にならぬと公言した、捨てることが美徳だった、と。
〝ガラクタを好きで集める者が激減した。
 収集品を置く場所に困るし、酔狂を白眼視する風潮が生まれた〟と。
いまの時代になっては、そうした風潮も多少は改められた、と僕は思う。


でも、作者はこう語る。
〝紙くずにどんな意味があるのか、集める意義は何か、それを小説にしようと考えた。
 紙くずは時代の証人、と主張したい。
 一枚の変哲もない紙くずから、一国の政治の、裏側の事実が判明する。〟
そんな想いは、随所にこめられた、意欲作であり、力作だ。
ジョン・ダニングの「死の蔵書 (ハヤカワ・ミステリ文庫)」を思い起こさせる。


ただ、あえて〝意欲作〟と書いたのにはワケがある。
ウンチク、トリビアを含め、古い紙くずへのこだわり、
という「横軸」の強さに比べて、
封印された満州映画のナゾ、という物語の「縦軸」が、どうにも難解なのだ。
いや、シナリオ再録のような描写が多いので、読みにくかったことに加え、
僕の読解力の問題もあるかと思うのだが、
「結局何だったのか」よくわからないままにストーリーは幕を閉じる。
ミステリー〝下手の横好き級〟としては、何となく不満も覚えたりする。
ミステリー上級者が読んだら、どう読み切るのか、ぜひにうかがってみたいな、と。


それでも、この本が一読どころか、必読であることは、
最後にもう一度強調したい。しつこいけど…
オビで謳ってるトリビアだけでも、ふむふむ♪となる。
騙されたと思って、ぜひに読んで欲しいな、と。
〝紙くず〟への愛着が、むくむくと湧いてくること、請け合いだ。