梅田ナビオTOHOプレックスで「海を飛ぶ夢」

mike-cat2005-04-21



「オープン・ユア・アイズ」「アザーズ」のアレハンドロ・アメナバール最新作。
デビュー作「次はわたしが殺される(テシス)」以来、
文芸ホラーというか、超自然サスペンスという感じの監督だったが、
こちらは実録モノの、文芸作品。
何だか劇場混んでるな、と思ったら、
そういえばアカデミー賞外国語映画賞を獲ったのだった。
道理で、賞好きな感じの高年齢層がムチャクチャ多いし、
東京では〝おじおば〟映画の殿堂シャンテ・シネで公開の様子。
まあ、題材的にも高年齢層に受けるから、賞は関係ないかもしれないが。


尊厳死をテーマに扱った、実話をもとにしたドラマだ。
原作本は「海を飛ぶ夢 (翔年たちへ)」〝LETTERS FROM HELL〟。
25歳の時の事故で、身体の自由を失い、
「死ぬ自由」を求めて裁判を起こした、
四肢麻痺の詩人ラモン・サンペドロの苦闘と〝解放〟を描いている。


この物語を構成する問題としては、まず物理的な側面がある。
そう。動けないのだから、当然〝自殺〟すらできない。
誰かに手伝ってもらえば、それは自殺幇助の犯罪を強いることになる。
健常者(この言葉は政治的に正しくない、のは存じているが、
ほかに適当な言葉が思い出せないので…)には許されている、
自分の生死を左右する権利は、オランダなど一部を除いて、四肢麻痺の患者にはない。
当然、キリスト教文化では大罪となる〝自殺〟の問題。
生きることは義務なのか、それとも権利なのか。
そんな大きな疑問を投げかけながら、映画はラモンとその周囲を描いていく。


ラモンの言葉が胸に突き刺さる。
「自分の生き方には尊厳がない」。
もちろん、他の四肢麻痺患者らを指して、批判した発言ではない。
尊厳を持って生きている人が大多数だろうし、あくまでこうした意見は、
ラモンが自身の置かれた状況について語った〝個人的〟なものだ。
しかし、実際こうした立場になったとき、
周囲の人間が「人生には生きる価値がある」と〝正しい意見〟を振りかざすのは、
あまりに無神経で無思慮に過ぎるのではないか、とも思う。


例えば、圧倒的な金持ちなら、少しは話が違うのだろう。
生活資金は資産運用で賄えるし、身の回りの世話もオカネで買える。
家族に大きな負担をかけることなく、できる範囲内で楽しみも見つけられるだろう。
だが、経済的に恵まれていない四肢麻痺患者だっているはずだ。
たとえ家族がまったく負担と思っていなくても、
何をするにも人に〝お願い〟をしなければいけない人生は、やはり辛い。
それがたとえ、認められた当然の権利であっても、だ。


そんな中でも「生きる価値は見つけていける」という意見も正しいと思う。
でも、そうした正論でも、
まったく体が動かない状況で言われたとしたら、どうなのだろう。
映画でも、本でも、体を動かさなくても楽しめることは多い。
だけど、健康な時に楽しめる娯楽が、
不自由を強いられる生活の中で楽しめるかどうかは、まったく別の問題だ。
一般的な生活をしていれば、およそ考えることのない「生きる価値」だが、
思索にほとんどの時間が費やされる生活となった時は、
それが、思考の迷路に誘い込むものであることは、想像に難くない。


信仰が救いになるひとも中にはいるのだろう。
生と死、という重いテーマの思索を整理するには、何らかの指標はとても有効になる。
ちなみに、宗教とは別。それはあくまで信仰の道筋や手段でしかない。
映画の中で、
同じく四肢麻痺の司教がラモンに投げかけた言葉は、
宗教的な価値観の押しつけばかり。それどころか
「ラモンが死にたがるのは、家族の愛情の欠如」と言い放つ。
ここで宗教が与えてくれるのは、〝正しさ〟の強制でしかない。


「生きる価値」に話を戻す。
ラモンは家族だけではなく、いい友人にも恵まれたようだ。
さらに四肢麻痺というハンディを背負いながら、
ラモンの周囲には女性の姿が常に絶えなかったという。
ラモンはウィットのきいた会話を得意とする、ハンサムな男性だったらしい。
ハビエール・バルデムが演じているから、ではなく、実際もそうだったとか。
ラモンはあまりオトコとしてもみじめな思いをしていないのだ。
まあ、行為そのものがまるで不可能か、
それとも受動的には可能か、などが描かれていないので、微妙ではあるが、
少なくとも、世の中からうち捨てられた存在ではなかった。


それでいて、ラモンを死に駆り立てるのは、
やはり、虚無感からの〝解放〟だ。
別に死後の世界を信じているわけでもない。
待っているのは〝絶対的な無〟ということを承知の上だ。
やはり、本の原題通り、ラモンにとってこの世こそ〝地獄〟なのだ。


だからといって、死を無思慮に礼讃しているわけではないのが、ミソだ。
自らの人生の多くを犠牲にしながら、
ラモンの世話に奔走する家族の苦しみは、胸にするどく突き刺さる。
息子に死を望まれる、ラモンの父親の苦悩。
家族の経済的な基盤を支え、家長としてラモンに〝生〟を強いる兄。
下の世話も含めて、物理的な世話をすべて賄う、義姉。
自分自身整理できない感情に悩み続ける甥。
これらの人々にとって、ラモンの〝解放〟への思慕は、
理解はできても受容はできない、二律背反な要素を含むものでしかない。


映画の中では、
ラモンを支えてきた支援団体の女性が、妊娠、出産を経ていくプロセスが描かれる。
ラモンの〝解放〟が、生命の誕生との対比ではなく、
あくまで同列に〝生き方=WAY OF LIFE〟として描かれているのだ。
それでも、やはり家族の描写には痛々しさばかりが目立つ。
「死ぬ自由」を行使すれば、必ず傷つく人もいる。
それを理解した上で、「行動の自由」を行使すべき、
という視点が、映画に深みを与えている。


というわけで、いろいろと考えさせられる映画だった。
僕個人は、尊厳死の権利は「〝当然〟あるべき」と思っているし、
だれもがすべてに「自由」に生きているわけではないが、
少なくとも、過酷な状況の中で生きることを強いられる筋合いはないと思う。
もちろん、「生きていれば何かいいことあるはず」と信じる、楽観主義者だから、
自分自身でそういう選択をするというのは、想像しづらくもある。
その程度には、自分の考えはまとまっていたのだが、
この映画は、また違うアプローチで、思索の機会を与えてくれた。
重いテーマの割には、映画として楽しめる程度のリズムのよさもあるし、
何よりも、バルデムの演技がひたすら素晴らしい。
ガリシア地方の美しい情景も、もう感動ものだし、
ナンバー1とは言わないが、間違いのない傑作といっていい、と思う。


帰りにたまたま購入した「週刊文春」で、この映画の評が出てた。
中野翠は「死生観に共感できない。ひとり静かに、という訳にはいかないの」
芝山幹郎は「自身の死をおおごとに見なす設定が人為的すぎて…」とある。
何を観ていたんだろう、この人たちは…。
劇場で一緒だったオバチャンたち以上に映画の余韻を乱される。
死生観に共感できないのは勝手だが、「ひとり静かに」というのは別。
ひとり静かに、では、世の中は変わらない。
「生きる義務」を押しつけられたひとの闘い、ということを理解して欲しいな、と。
「自身の死をおおごとに見なす」というのは、
ラモンの自意識過剰を指摘しているんだろうか。
ラモンにとって、生きることがどれだけ重い問題だったか、
2時間を使って描いているのに、全然理解していないらしい。


自分でオカネを払って観た人が、よく観ていないで意見を語るならまだしも、
オカネをもらって、仕事で観ているにもかかわらず、
単なる感想を語られると、本当にアタマくる。
そう思ってふだんは映画評はほとんど読まないのだが、たまに読むとこれだ。
せっかくいい映画を観たのに、なぜか怒り肩で帰路につく。
こうやって偉そうなことを書いてるくせに、
つくづく〝小さい〟自分にも、ちょっと憤りを感じつつ、だった。