強烈な打ちのめし系「モンスター」

シャーリーズ、こわいよう…

ひさしぶりの早起き映画劇場。渋谷シネマライズで「モンスター」。


アカデミー賞授賞式から、えらく時間経った気がする。
3年連続で美人女優のブスメイクが主演女優賞獲ったんだっけ…
やつれきったハリー・ベリー「チョコレート」、
ヘンな鼻のニコール・キッドマンめぐりあう時間たち」。
そして、体重13キロ増量し(いや、見た感じそんなモンじゃすまないかも)、
跡形もなく不細工になったシャーリーズ・セロン…。ああ、悲しい。
意味はわかるんだけどな。「顔だけじゃない、わたしの演技力を観て!」。
でもなぁ、だいたいがもったいないし(セクハラ?)、
そういう役しかできない女優さん(あっ、こっちの方がハラスメント性高し)
のマーケットを荒らしてるし、どうかと思うんだけど、
完全にひとつの潮流になっちゃってるな…。


まあ、美しい女優の、美しい演技は演技じゃない、
とアカデミー会員が勝手に決めつけてるからだろうけど、
スターの魅力の重要な一領域を否定することが、もっとも優秀であることの条件なら、
こんなつまんないことないと思う。
人生や価値観を揺さぶるような映画ももちろん大事だけど、
スターを観て心ときめかす瞬間を否定されているみたいで、あんまりうれしくない。
ああ、いきなり脱線してる。映画の話に戻そうっと。


傷つけられ、踏みにじられてきた一人の娼婦の物語だ。
人生への夢を、憧れを追いかけてきたアイリーンが、ついにそれをあきらめた時、
ふいに出会った運命の女性、セルビー。
彼女もまた、ゲイとして疎外され、社会からつまはじきにされた存在だった。
二人は、惹かれあい、求め合い、二人での生活を夢見る。
しかし、アイリーンがある日巻き込まれた事件を境に、二人の生活は暗転する。
堅気社会からも締め出されたアイリーンは、再び街娼の世界に身を置き、男たちに復讐を果たしていく。
だが、それは許されざる形での復讐。連続強盗殺人だった。


このアイリーン。とにかくわがままで、勝手で、独り善がりで見栄っぱり…
ひとことでいえば性悪オンナだ。
取る行動も、とにかく短絡的で、自己中心的。なるほど、社会病質者の一種といってもいいだろう。
実話なんで、あらかじめばらしちゃうが、
この連続殺人犯〝モンスター〟アイリーンは死刑になっている。
でも、やったことを考えれば、それしかないだろう、とは思う。気の毒だが。


映画は、アイリーンの哀れな生い立ちをていねいに叙述し、
愛を渇望するアイリーンの心象風景を描き出す。
だが、きちんと「彼女は死に値することをやっている」というフェアな部分は捨てていない。
ただ、死刑に値する行動を取った彼女にも、理由はあったことを理解する。
それが、せめてもの弔いでもあるだろう。
彼女は加害者ではあったが、社会の被害者でもあった、という理解なしには、
アイリーンの人生を語ることはできないんじゃないかと思う。


8歳で父親の友人にレイプされ、両親を失った13歳から弟たちのために客を取る生活。
しかし、それも家族には理解されず、社会の片隅へと追いやられる。
映画の冒頭、7歳の時の夢見るアイリーンの姿が粗い粒子の映像で映し出される。
彼女が純粋な幸せに包まれていた、最後の時代だ。
そして、その後、男たちにふみにじられる彼女の姿が、描き出される。
それでも人を信じ、懲りることのないアイリーン。悲しくって、もう見ていられない。
こんなにまで人間を信じたからこそ、傷つき続けたのだ。


一方、アイリーンの憎しみの対象となるのは、無抵抗な子供に手を出す、騙す、殴る、蔑む…。
もう、最低な男たちのオンパレードだ。
だから、こいつらある意味死んで当然なんで、別にかまわない。
たまにナイーブな男なんかがいると、殺すのやめちゃうのが、なかなか笑える。
殺すのは、あくまで女性を性欲処理のモノとして、商品として、見ている連中ばかりだ。
だから、アイリーンの取った行動について、僕は許容はできないが、理解はできる。
感情についていえば、ほぼ同意できるだろう。
アイリーンの最後の叫びは「男たちにレイプされたわたしが、なぜ死刑なの」。
この問いかけに、絶対の自信を持って答えることは、とてもできない。


だけど、アイリーンにももちろん問題はある。
殺人は純粋な復讐だけをしていたわけでもない。
強盗殺人は、セルビーとの逃避行、そして豪遊のために必要なカネ作りのためでもある。
途中から、越えてはいけない一線(殺すだけで越えてる部分もあるけど)を越えたのを見て、
「死刑やむなし」の感は否めなくなる。
たぶん、ぼくが陪審でも有罪にしちゃうだろうな。


生い立ちがもたらした要因はある。彼女を追いつめた社会の冷たさもあるだろう。
でも、そういう風に生まれついても、越えてはいけない一線を越えない人はいくらでもいる。
もちろん、そんな辛い生い立ちとは程遠い僕が偉そうにいうのも憚られるけど。
「人を殺すのはいけない」といわれ、「Says who!!(誰がいったの?)」と怒鳴り返すアイリーン。
いや、いけないかどうかは、あくまで、その時属してる社会の尺度かも知れない。
戦争とか、逆に殺したら偉くなれるわけだし。
しかし、じゃあ自分が虫けらみたいに殺されたらどうなんだよ、と、
小学生の作文みたいなレベルで考えてみろよ、とは思う。
世の中には、死に値する奴なんて腐るほどいると思うけど、
どっかでそれを許したら、てんでバラバラな尺度で殺していいことになったちゃうんだし。


アメリカって、こういう生い立ちを理解する必要性と、
許すことの必要性の違いが、あいまいになった国ではあると思う。
連続殺人犯が「幼児の頃の虐待で精神を病んで…」。
これが水戸黄門の印籠なみに効いちゃうケースがあるからな。
だから、この映画もそういう路線で彼女を描いていたら、
たぶん、観ていて怒り出していたかもしれない。


でも、「モンスター」はある意味、アイリーンを突き放している。死んで当然。
だが、「彼女にだって、こんなことがあったのよ。裁かれるべきは彼女だけなの?」
この問い掛けが、こころに深く突き刺さる。
感動作なんだろうか。いや、違うと思う。
癒やし系ならぬ、打ちのめし系映画。
一人の女性の人生、彼女を取り巻くクズのような男たちの人生について、考えさせられる映画だ。
最後にかかるのはジャーニーの「DON'T STOP BELIEVIN'」。
♪孤独な世界に生きてきた、田舎町の女のコ。
夜行列車に乗って、行くあてもない旅に出る…
もう、ダメだ。悲しすぎる。どうしたらいいのか、考え込みかねない。
もちろん、観に行くべき映画ではある。しかし、心して観て欲しい映画でもある。
朝、仕事前に観たり(あっ、それは僕だ)、デートとかで観るのは、お勧めはできない。
だれも、デートムービーとは思ってないだろうから、大丈夫だろうけどね。