想い乱れる、「逃亡」の重さ

読んだのは新潮文庫版

福岡から出張で戻る。たった一泊。
いかにも福岡な食べ物には、ありつけないまま、東京へ。
いや、勝手に酒飲んだり、寝坊したのがいけないので、しかたない。
で、帚木蓬生「逃亡(上) (新潮文庫)」「逃亡(下) (新潮文庫)」を読み終えた。 
ボリュームもそうだが、物語も重い、ひたすら重い。
読み終わって、胃がずーんと重くなった。


時代は、二次対戦末期から戦後間もなく、まで。
憲兵隊の特高課として、香港に赴任していた守田が、
戦犯としての取り扱いから逃れるため、
終戦時の武装解除以降、逃避行を続ける。
あの戦争は何だったのか、何が、戦争犯罪だったのか。
途中、特高として行った〝戦争犯罪〟がフラッシュバックで挿入される。
逃避行のさなか、九州に残した妻との再会、そしてつかの間の生活。
かつての同僚たちとの再開、そして逃避行が、重厚なスケールで描かれる。


帚木蓬生は「三たびの海峡 (新潮文庫)」に続いて2冊目だ。
こちらは、戦時下の強制連行で当時の朝鮮から、海峡を渡った〝わたし〟の、
炭坑での地獄のような日々、そして日本人妻とともに再び海峡を渡る。
そして戦後半世紀を経て、三度目の海峡を渡る、というお話。
どちらも、こころの準備が必要なレベルの〝重い〟話だ。
中途半端に知識はあったから、覚悟はある。
だが、小説とはいえ、
一つ一つのエピソードが物語る〝戦争〟のリアリズムにはただただ圧倒される。


戦争責任についても、かなり勇気ある意見が盛り込まれてる。
これ、つまり「天皇は戦争責任を取るべきだった」だが、
戦勝国の思惑があった、というのを差し引いても、僕も賛成。
だって、戦争起こした時の最高責任者が、責任取らないなんてとこは、
いまの日本社会と、ホント同じだと思う。
こういう真っ当なことをいうのに、勇気がいること自体、
まあ、いまの世の中もおかしいんだろうけど。
ちなみに、うちの高校では、歴史資料をひもといて、
その戦争責任について言及してた。すごいガッコだ。自分の母校ながら。


まあ、こんな感じで、
戦争を語り出すと、きりがなくなるんで、あと1点に絞り込むが、
特に「逃亡」で顕著だが、やはり戦争って、
「個人が国家とどう向き合うか」の極限的状況なのだ、と思う。
多くの日本人が、軍人として、戦地に赴き、行ったこと。
戦争という行為そのものが、まず人殺しなんで、ものすごく広義では全部犯罪なんだが、
それは通常の戦闘行為、ということでここでは除外。
まあ、それだって、戦争に反対なら、牢屋に入れられても抵抗すりゃいいんだけど。
だが、国家(もしくは国家という名の下の上官)の命令で行う行為を、
自分の信念に従って判断できるか、は個人の信義やプライドに関わる問題だと思う。


こういうと、「お前、戦場でそんなこといえるのか」と突っ込まれそうだが、
そういう信義やプライドを捨てる人が多くいれば、その集団は非道に走るし、
少しでも多くの人が、それに抵抗すれば、最低限のモラルは保たれるはずだ。
これ、いまのふだんの生活でも、実は同じことだと思う。
ふだんの生活でなら、企業(もしくは勤め先)と個人の関わりになるけど。
企業、という名の大義名分のため、信義やプライドをなくすことで、
集団が暴走する。雪印なんかも、その典型だったと思う。


「企業を守るため」、って、じゃあ、企業って何なの、と思う。
利用されるだけ利用されて、ことが起こったら、
切り捨てられるのはあんたたち社員だよ、と。
物語の後半、戦犯として裁かれる人間の中には、
「この男が死刑なら、何であの男は大手を振って街を歩けるんだ」
と思う人間も多くない。
つまり、国家から切り捨てられた男たちだ。もう、悲哀を感じるしかない。
そうならないため、できることって、やっぱりこれしかない。
信義に外れたことには、
プライド(俺さま的な、ではなく、モラル的な)を持って抵抗する。
あらためて、それを強く感じた。ちょっとまじめに語ってみる。


あっ、小説のでき。題材の重さでちょっと微妙だが、
純粋にエンタテイメントとしても〝面白い〟ことは確か。
特に食料難の描写なんかは、すごく切実だ。
香港で、支配者として君臨する日本人が、
被支配者としての香港人にも劣る食生活をしてるとことか、
逃避行を続け、食うや食わずの生活を続けたのに、
巣鴨プリズンでは、ふつうの日本人が驚くほどの豪華な食事をもらってみたり。
ホント、背伸びしすぎてやってた戦争なんだな、と思うとともに、
食いしんぼとしては、ただただ「ひーっ」と、
ホラー映画を見る感覚で読んでしまったのだった。


食べ物から始まって、食べ物で終わる。
何かちょっと前の方で、色々語ってしまったが、結局、僕ってそういう人間だ。
ううん、食べ物で苦しんだ時、どう転がるか、見ものかも…