梅田ガーデンシネマで「ダーウィンの悪夢」

mike-cat2007-01-16



〝一匹の魚から始まる
 悪夢のグローバリゼーション〟
アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネート、
セザール賞最優秀初監督作品賞などにも輝いた一方で、
ヨーロッパではアフリカ産の魚の不買運動を巻き起こし、
大統領を始めとしたタンザニア政府からは、
痛烈な批判とネガティヴキャンペーンにさらされた問題作。
アフリカ、ヴィクトリア湖畔の小さな町ムワンザが、
グローバリゼーションの波に蹂躙される様を克明に描く。


タンザニアウガンダケニアに面した世界最大級の湖、ヴィクトリア湖
かつてその多様な生物相から〝ダーウィンの箱庭〟と呼ばれた湖は、
ほんの半世紀前に放流された外来種の魚、ナイルパーチによって大きく変容した。
肉食種のナイルパーチは、在来種の魚を食べ尽くし、生態系や環境を破壊する一方、
その白身魚は、ヨーロッパ、日本などに輸出できる、カネになる魚として、一大産業に転じた。
だが、その一方で、人口流入がもたらす、新たな貧困や犯罪の横行や、
ストリートチルドレンや売春婦の増加など、地域コミュニティも崩壊していった。
グローバリゼーションの中で、ヨーロッパの利益を支える役割を背負わされたアフリカ、
その縮図として、ナイルパーチをめぐる状況を追った、ドキュメンタリー。


ハンディカメラによる、ざらついた粒子の粗い画像。
そこに映し出されるものは、まさしく衝撃の内容といっていい。
最大2メートルにも達するという巨大魚が河岸に上げられ、解体されていく。
だが、その輸出用フィレは高価で地元の人間には手が出ない。
地元の人間の口に入るのは、大量のアラ。
それも、トラックで運ばれ、大量の蛆虫がわいた、腐った残骸だ。
スクリーンから漂ってくるようなアンモニア臭で、目が潰れた女性の顔が大きく映し出される。
ナイルパーチが産み出したはずの富は、いったいどこに行ってしまったのか。


街にあふれるストリートチルドレン
濁った目つきで諍いを繰り返す彼らが口にするのは、ほんのわずかな食糧。
地雷で吹き飛ばされた脚の代わりは、棒切れのような松葉づえ。
魚の梱包材を燃やした、粗悪な代替ドラッグで、生活の不安を忘れる毎日だ。
エイズで夫を失った女たちに残された、最後の生活手段は売春婦。
わずか10ドルの端金で、外国人達に身体を許し、時には犯罪の犠牲者として骸となる。


ロシア人たちが操る輸送機が、アフリカからヨーロッパの食卓へと〝切り身〟を運ぶ。
ヨーロッパからの積み荷は、内戦が続くアフリカ各地へと送られる武器の数々。
飢饉や戦争、疫病…
アフリカでは、あの〝9・11〟クラスの惨劇が、毎日起こっている。
ビジネスの名前の下、巧みな搾取の図式でアフリカの富が吸い上げられる。
帝国主義の残滓は、いまでもアフリカの大地に血の涙を強いているのだ。


かつてのダーウィンの箱庭は、
還ることのない、一方通行の食物連鎖の最下層と化した。
ヨーロッパとの関係だけでなく、アフリカの内部においても適用される、
圧倒的な力の論理は、適者生存、弱肉強食のもっとも醜い形でもある。
そこは、グローバリゼーションのもたらす悪しき部分の象徴ともいえるだろう。
魚の加工工場の壁に貼られたカレンダーに書かれた
〝誰しもが大きなシステムの一部〟の文字が、痛いまでに心に突き刺さってくる。


映画そのものとしての出来は、いまひとつ微妙だ。
現地の状況、つまりミクロの部分の描写に偏りすぎたせいで、
マクロでの視点から問題提起が弱いのだ。
ミクロのセンチメンタリズムとセンセーショナリズムばかりが目につき、
マクロの部分でのロジカルな説明が不足してしまった結果、
「グローバリゼーション=悪」の図式が大前提になっているならともかく
まったく真っさらな状態から観てしまった場合、
「全部が全部グローバリゼーションのせいなの?」とも思ってしまいかねない。
環境破壊にエイズ、貧困、ストリートチルドレン
「アフリカの危機的状況は、自業自得の部分もあるのでは?」と
考える人がいても、まったく不思議ではないだろう。


撮影は、危険な地域に潜入し、賄賂に裏金、誘拐騒動に身分詐称と、
トラブルまみれでジョセフ・コンラッド「闇の奥」そのままだったという。
その貴重な映像を削りたくなかったためだろうか、全般に冗長なのも苦しい。
その割に、ちょっとバランスが乱れるほどこだわった武器密輸の映像はかなり貧弱。
これでは、〝最初に結論ありき〟の偏向報道といわれても反論しづらい。
問題提起だけしておいて、その解決へ向けたメッセージや方策の提示もないのも辛い。
新聞・テレビによくある、無責任でチャイルディッシュな正義を振りかざすよりマシだが、
物足りない思いが残るのは、無理のないところだ。


だが、そうした問題に目をつぶれば、この作品が提起する問題はズシンと響いてくる。
問題点を承知した上で、監督のフーベルト・ザウパーが訴えかけるのは、知ることの大事さ。
言い換えれば、無知であることの危険である。
自らが享受する豊かさが、誰の犠牲の上に成り立っているのか。
スーパーマーケットで購入する数々の食物や工業製品は、
いったいどんな経緯をたどって、その陳列棚にたどり着いたのか。
悲劇的な状況に対し、無知と無関心がもたらすのは、さらなる悲劇の繰り返し。
まずは、食卓に並んだ白身魚のフライに、アフリカの悲劇を透かしてみることだろう。
それで何ができるか、正直まだわからない。
だが、それを知ることで、何かが変わる第一歩にできる可能性は広がるのだ。