ジェイムズ・エルロイ「ブラック・ダリア (文春文庫)」

mike-cat2006-10-21



ブライアン・デ・パルマ監督の映画「ブラック・ダリア」原作。
映画を観て、あらためて読みたくなって、本棚から取り出す。
5年(か、6年)ぶり3度目(か、4度目)の再読になると思う。


ロサンゼルス市警(LAPD)に務める2人の元ボクサー、
バッキー・ブライチャート(映画ではブライカート)とリー・ブランチャード。
LAPDの財源確保のため、対戦を果たしたファイア&アイスの間に友情が生まれる。
警察内、そして検事局を巻き込んだパワー・ゲームに翻弄されながらも、
リーの恋人ケイとともに、〝おとぎ話〟のようにパートナーシップを深めていく。
しかし、LAを揺るがす猟奇殺人の死体
ブラック・ダリア>が2人の前に現れたとき、運命は大きく揺れ動く。
ダリアに早くしてくした妹の幻影を見てしまったリーに引き込まれるように、
いつしかバッキーもダリアに魅せられていくのだった−


何度も読んでおいて何だが、あらためて小説に戻ってみると、
映画がいかにシンプルな作りになっていたか、ということをあらためて認識させられる。
逆にいうと、いかに小説がさまざまな要素を織り交ぜながら、
あの強烈なノワールの世界を構築していたのか、ということにもなる。


「シェルシェ・ラ・ファム(女を捜せ)、バッキー。覚えておけよ」
出会ったばかりのリーが、バッキーに語りかけるこの言葉から、すべては始まる。
〝抑揚なく言われたあの言葉がいまもなお私につきまとっている。
 なぜかといえば、私たちのパートナーシップは
 <ダリア>に至る茨の道にほかならなかったからだ。
 そして最後に彼女は私たち二人を完全に虜にすることになったのだった。〟


リーの妹への想いがもたらす、ダリアへの妄念、妄執、そして情念…
映画では付け足しのように語られる部分が、序盤から何度も丹念に描写される。
小説を読んでいると、その残像みたいなのがあるためか、
映画であまり違和感を感じないのだが、
小説を読んでいない場合、を冷静に想定してみると、いかに唐突なものかがわかる。
映画ではかなり作為的にも思えたリーの末路も、
小説ではとても味わい深い(とはいっても、末路なのだが…)ものに仕上がっている。


もちろん、それはそのまま、バッキーの情念にもつながる部分はある。
単なる謎解きに終わってしまった感もある映画版と比べ、
トロール警官に身を落とし、再びダリアへの情念を燃え上がらせるなど、
小説ではずいぶんと遠回りをして、それでもダリアの謎に迫っていく執念が印象的だ。
そのためには、地方検事補のエリス・ロウやフリッツ・ヴォーゲルらLAPDらの面々との、
虚々実々の駆け引きなんかも、ねっちょりと描かれている小説版の方がやはり深い。
そして最後にダリアが果たした役割なんかも、
小説版で描かれるさまざまな要素があってこそ、の感慨があることに気付くのだ。


もちろん、あの映画はあの映画で悪くない。
むしろ時間的制約などを考慮して、
ある種別の物として考えれば、やはりクオリティはなかなかのものだと思う。
しかし、こうやってあらためて小説を読み終え、
その物語世界の完成度を考えてしまうと、ちょっと格が違うかな、の感はある。


映画を観て、よかったと思う人はもちろん、
「あんまり…」と思った人には、もっともっと原作を読んで欲しいなと強く感じる。
そうすれば、単なる猟奇殺人を描いた小説ではなく、
LAのある時代そのものを描いた、壮大な小説であることがよくわかるはずだ。
数日前に散々映画を褒めておいて何だが、
やはり原作はすごいな、とあらためて実感したのだった。


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ブラック・ダリア
ジェイムズ・エルロイ著 / 吉野 美恵子訳
文芸春秋 (1994.3)
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